第二章 1話 名前で呼べる彼女
気がつけば、あの日から数日が過ぎていた。
春野さんは、英会話教室の生徒さんを連れて、何度もリュミエールへ足を運んでくれるようになった。
窓際の席で楽しそうに会話を弾ませる姿や、デセールを前に目を輝かせる笑顔は、いつしか見慣れた店の風景になっていた。
前にお出ししたデセールを気に入って下さったらしく、一人でふらりと来店されることも増えた。
「こんにちは」
ショーケース越しに交わす挨拶も、最初の頃のどこかよそよそしいものではない。
何度も顔を合わせ、同じ時間を重ねるうちに、僕たちは自然と”春野さん”ではなく、”さくらさん”と呼ぶようになっていた。
不思議なことに、その名前は、もうずっと前から知っていた人のように、しっくりと馴染んでいた。
「お待たせしました。温かいモンブランです」
「わぁ・・・温かいモンブランなんて初めてです」
目を細めて満面の笑みになるさくらさん。
名は体を表すというが、この人の笑顔は桜の花のように優しくて、柔らかい印象を受ける。
「ほうじ茶風味のメレンゲにクレームモンテを重ねて、渋皮付のマロンクリームで仕上げています」
僕は皿の上を指差しながら説明を続けた。
「添えてある小さなカップには柚子のグラニテを。もう一つのカップには温かいほうじ茶のソースが入っています。それぞれお好きなタイミングで合わせてお召し上がり下さい」
目の前のデセールに視線を落としていたさくらさんの表情が、少しずつ明るくなっていく。
まるで、宝箱を開ける前の子どものようだった。
「わぁ・・・素敵。いただきます」
思わず笑みがこぼれるような声とともに、さくらさんがフォークを手に取る。
栗のクリームを一口。
その瞬間だけで、十分だった。
頬がゆるみ、瞳が輝く。
その幸せそうな表情を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
こんなふうにスイーツを楽しんでもらえる。
パティシエとして、これ以上嬉しいことはなかった。
「さくらさんは、もともとケーキがお好きなんですか?」
そう尋ねられた瞬間、彼女は少しだけ目を丸くし、それから春の陽だまりみたいに柔らかく笑った。
「はい。幼い頃から、誕生日やクリスマスに家族で食べるケーキが大好きでした」
カップを両手で包みながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「味だけじゃなくて・・・ケーキを取り巻く、あの幸せな空気が好きなんです」
その声は、ほんの少しだけ遠くを見ている。
「今でも覚えています。父がケーキの箱をテーブルに置いて、少し誇らしげにリボンをほどくんです。母は横で”早く開けましょう”って、子供みたいに目を輝かせていて・・・」
白い箱のふたが、そっと持ち上がる。
ふわりと広がる甘い香り。
部屋の灯りに照らされた、苺の赤と生クリームの白。
小さな手を伸ばす、あの頃の自分。
さくらさんの瞳は、今ここではない時間を映していた。
頬に落ちる光がやわらかく揺れている。
ケーキの話をしているのに、目の前で輝いているのは、彼女の記憶そのものだ。
胸の奥が、静かに温かくなる。
「シェフの作るケーキも・・・リュミエールの雰囲気も、あの頃の思い出が蘇るように、私を幸せな気持ちにさせてくれます。ありがとうございます」
そう言って、さくらさんは少しだけ頭を下げる。
長いまつ毛の影が、頬に淡く落ちた。
―ありがとう。
その言葉が、こんなにも重く、温かく胸に触れた事はない。
「え・・・こちらこそ、ありがとうございます」
自分でも驚くほど、声がわずかに掠れていた。
顔を上げた彼女と、目が合う。
店内の照明が、その瞳の奥で小さく揺れる。
一瞬。
ほんの一瞬なのに。
時間が止まったように感じた。
「さくらさん、気を付けて下さい。シェフが、やらしい目で見てます」
「見てねぇし」
優里ちゃんの言葉に、思わず大きな声で突っ込んでしまう。
すると、カウンター席に座るさくらさんが小さく笑う。
「フフフ。本当に仲良しですね。お二人」
柔らかな笑顔を向けられ、僕は少し肩をすくめた。
「まあ・・・四年も一緒にいればこうなります」
そう答えると、さくらさんは納得したように頷く。
「四年も一緒にいられるって事は、波長が合うって事ですよ」
優しい口調だった。
まるで当たり前のことを話しているだけなのに、その言葉にはどこか温かさがあった。
「・・・でも、私、もうすぐ辞めるんです」
それまで笑っていた優里ちゃんが、少しだけ視線を落としながら口を開く。
さくらさんの表情が驚きに変わった。
「え?お辞めになるんですか?」
思わず聞き返したような声だった。
「学生の間だけのアルバイトでしたから・・・もうすぐ卒業してポートアイランドに引っ越すんですよ」
優里ちゃんは、そう言って微笑んだ。
けれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。
「そうなるとシェフは一人になるわけです。私・・・それが心配で、心配で・・・」
そう言いながら僕を見る。
まるで、一人で留守番をする子どもを見守る母親のような表情だった。
「大丈夫だよ。そんなに大きな店じゃないし・・・なんとかするよ」
僕がそう言うと、優里ちゃんの肩がびくりと動いた。
案の定、納得していない顔だ。
「なんとかって?」
すかさず身を乗り出してくる。
「いまだに求人もかけてないじゃないですか!」
「それなら用意した」
「え?」
僕は厨房から一枚の紙を持ってきて、高たかと掲げる。
「じゃーん!求人の張り紙出来ました!」
胸を張ってみせたのは、昨夜閉店後に作った求人の貼り紙紙だった。
[急募!スイーツを愛する人。土日祝日、一緒に働きましょう!時給、ナイショ。休憩、あるかな?詳細は直接聞いてくださいませ!]
数秒の沈黙。
「・・・何ですか、これ・・・」
貼り紙と僕の顔を交互に見ながら、優里ちゃんが呆れた声を漏らす。
「何かのチラシの裏に、ボールペンで書いたんですか・・・?」
「まあね」
僕は胸を張る。
「達筆だろ?」
「そこじゃありません!」
間髪入れずに返ってきた。




