第八章 3話 振り返らない背中
胸の奥が締め付けられる。
少し間をおいて、優里ちゃんが口を開いた。
「・・・シェフにとって、愛って何ですか?」
思いがけない質問だった。
「・・・え?」
優里ちゃんは真剣な表情を崩さない。
僕は少し考える。
愛。
改めて聞かれると難しい。
「例えば・・・」
言葉を探しながら続けた。
「漢字でもあるように、恋って下に心があって下心っていうか、自分を中心に好きという感情を相手に届ける」
優里ちゃんが静かに頷く。
「でも、愛は真ん中に心があって、真心。相手を中心に好意を届ける」
さくらさんの顔が浮かぶ。
笑顔も。
泣きそうな顔も。
困った顔も。
全部。
「例えば・・・自分が犠牲になってでも、相手の幸せを願う・・・みたいな」
少し照れくさくなって苦笑いする。
「ごめん、上手く説明出来ないや・・・」
優里ちゃんは首を横に振った。
「ううん」
その表情は、どこか柔らかかった。
「伝わってきましたよ」
小さく微笑む。
「十分に・・・」
再び静寂が訪れる。
優里ちゃんはしばらく黙っていた。
何かを考えているようだった。
そして、不意に顔を上げる。
「ねえ、シェフ・・・」
その声に視線を向ける。
優里ちゃんの瞳は真っ直ぐだった。
「さくらさんの事、愛してる?」
一瞬だけ息が止まる。
けれど、迷いはなかった。
「うん。誰よりも愛してる」
自分でも驚くほど、迷いのない答えだった。
優里ちゃんは静かに頷く。
「そっか・・・、分かった」
何かを悟ったような、覚悟を決めたような表情だった。
優里ちゃんは、ゆっくり椅子から立ち上がる。
そして、コートを羽織ると、何事もなかったように出口へ向かう。
その姿を見て、胸がざわついた。
「どこ行くの?」
優里ちゃんは振り返らない。
ドアノブに手を掛けたまま答えた。
「さくらさん、取り返してきます」
思わず立ち上がる。
「え?」
椅子が大きな音を立てる。
「俺も・・・俺も一緒に行くよ!」
優里ちゃんが振り返る。
「駄目」
迷いのない声。
「シェフはここに居て」
「なんでだよ!」
思わず声が大きくなる。
「優里ちゃんは女の子だぞ!」
胸の奥が熱くなる。
「一人で行かせれる訳ないだろ!」
気付けば拳を握りしめていた。
「俺が盾になる。だから・・・」
その時だった。
「だからぁ・・・」
優里ちゃんが小さく笑う。
「優しくしないでって、言ってるじゃん・・・」
そう言って、優里ちゃんは困ったように笑った。
泣きそうなのに、泣かないと決めた人の笑顔だった。
「シェフはパティシエでしょ。クリスマスが終わっても、シェフのケーキを楽しみにしている人がたくさんいるの」
優しい声だった。
「それに・・・突然、さくらさんが帰ってきた時、シェフがいないと困るでしょ?」
言葉に詰まる。
確かにそうだ。
だけど――
「そうだけど・・・でも・・・」
納得なんて出来なかった。
けれど、優里ちゃんの瞳は少しも揺らがない。
「私は看護師です」
静かな声だった。
それなのに、不思議と胸の奥まで届いてくる。
「一人でも多くの人に元気になってもらうのが仕事です」
優里ちゃんは、真っ直ぐ前を見つめていた。
「だから・・・私、職務を全うしてきます」
その瞳には迷いは無かった。
恐れも不安もあるはずなのに、それでも引き返さないと決めた人の覚悟だけが、静かに宿っていた。
「あ・・・そうだ。言い忘れてた」
優里ちゃんが、ふと思い出したように呟く。
そして、小さく間を置いてから振り返った。
蛍光灯の灯りが、その横顔を淡く照らしている。
優里ちゃんは微笑んだ。
どこか寂しそうで。
どこか晴れやかで。
今まで見たことのない笑顔だった。
「私もシェフの事・・・愛しています」
時間が止まったような気がした。
「出会ってくれて、本当にありがとう」
胸が大きく脈打つ。
頭の中が真っ白になる。
「なんだよ・・・」
掠れた声が漏れた。
「なんで、お別れみたいな事言うんだよ・・・」
優里ちゃんは何も答えない。
ただ、優しく微笑むだけだった。
その笑顔が、余計に苦しかった。
「愛を教えてくれて、ありがとう」
静かな声だった。
僕は何かを言わなければと思った。
なのに、言葉が出てこない。
優里ちゃんはもう振り返らなかった。
扉が開く。
冷たい夜の空気が流れ込む。
そして――
静かに扉が閉まった。
カチリ。
小さな音が響く。
壁掛け時計の秒針は、変わらず時を刻み続けていた。
けれど僕には、その音がやけに遠く聞こえた。
優里ちゃんが消えたドアを見つめたまま、しばらく動くことが出来なかった。




