第八章 1話 聖夜の終わりに
あの日から数日が過ぎた。
けれど、優里ちゃんから聞かされた話は、今も頭の片隅に残ったままだった。
クリスマスを終えた閉店後のリュミエール。
ショーケースの中に並んでいたケーキは全て姿を消し、店内には慌ただしい数日間の余韻だけが残っている。
朝からひっきりなしに訪れていたお客様も帰り、聞こえるのは片付けをする音だけだった。
そんな中。
「シェフ。クリスマスおつかれさまでした」
優しい声に顔を上げる。
包材を整理していたさくらさんが、こっちを見て微笑んでいた。
「さくらさんこそ、おつかれさまでした。忙しかったね」
そう声をかけると、さくらさんはほっとしたように肩の力を抜く。
「はい。とても忙しかったですが・・・それ以上に楽しかったです」
そう言って笑う。
疲れているはずなのに、その表情はどこか晴れやかだった。
「ケーキを手にしたお客様がみんな笑顔で・・・」
店内を見渡しながら、さくらさんが続ける。
「私、クリスマス大好きなんです」
その瞬間、優しさと可愛いらしさが弾けるような笑顔が広がる。
冬の冷たい季節なのに、そこだけ、ふわりと桜が咲いたように見えた。
「・・・可愛いね。さくらさん」
思わず零れた言葉に、彼女は一瞬きょとんとしてから、
「もう、またそんな事言って・・・」
恥ずかしそうに両手で頬を押さえる。
ほんのり赤く染まったその仕草さえ、愛おしい。
間違いない。
僕はこの人を心から愛している。
―その時だった。
静かだった店内に、ドアベルの音が大きく響く。
思わず入口へ視線を向けた。
閉店したはずの扉が大きく開かれて、一人の男性のお客様が立っている。
冷たい夜風が店内に流れ込んだ。
「ごめんなさい。もう閉店なんです。ケーキも残ってなくて・・・」
申し訳なさそうに頭を下げたさくらさんが、それでも柔らかく微笑む。
すると、男性は店内へ一歩踏み込んだ。
「メリークリスマス」
やけに大きな声だった。
その顔を見た瞬間、どこかで見覚えがある気がした。
どこかで・・・
記憶を探る。
そして、男性の腕から覗く文字が目に入った。
ECO。
「あ・・・」
思い出した。
以前、さくらさんが倒れた時に駆けつけてくれた救護隊員だ。
名前は確か・・・田崎。
「悪いな・・・ケーキを買いにきたんじゃないんだ」
男が笑う。
その笑顔に妙な違和感を覚えた。
次の瞬間。
男の視線がゆっくりとさくらさんへ向けられる。
「こちらの綺麗なお姉さんを、お迎えにあがったんだ」
「・・・お迎え?」
思わず聞き返す。
嫌な予感が胸をよぎる。
「・・・そう、お迎えだよ・・・」
男の目が細くなった。
―その時だった。
「回収だ!!」
その言葉が響いた瞬間だった。
男はさくらさんの腕を強く掴んだ。
「・・・・いやあ!!!」
「静かにしなよ。今日はクリスマスだぜ」
低い声でそう言いながら、男は胸ポケットに手を伸ばした。
次の瞬間、スタンガンが取り出され、ためらいもなく、さくらさんの首筋に強く押し当てられる。
「…っ!」
短い音と共に、さくらさんの体から力が抜け、そのまま崩れ落ちた。
「さくらさん!」
気が付けば、僕は駆け出していた。
床に崩れ落ちたさくらさんを肩に担ぎ上げようとする男へ、まようことなく飛び掛かる。
「離せ!その手を離せ!」
男のコートを掴み、力任せに引き剥がそうとする。
「うるせえ!」
低い怒声と同時に、太い腕が振るわれた。
「さくらさんを返せ!」
男の腕を避けきった僕は、背後からその体にしがみついた。
全身の力を振り絞る。
男の体制が崩れる。
そのまま入口へ向かい、押し出すように店の外へ投げ飛ばした。
冷たい夜風が店内へ吹き込む。
「お前・・・この前来てくれた優里ちゃんの先輩だろ!」
胸が激しく上下する。
「なんで、こんな真似するんだ!」
男――田崎は舌打ちした。
「ちっ・・・その森や松井が回収を拒むから、わざわざ俺が直々に回収しに来てやったのによ・・・」
冷たい目が僕を睨む。
「舐めた真似しやがって・・・」
怒りで頭が真っ白になる。
「帰れ!お前の仕事は、人を助けることだろ!」
その瞬間だった。
田崎の姿が消えたように見えた。
気付いた時には、もう目の前にいる。
速い・・・。
そう思った時には遅かった。
閃光のような衝撃。
クリスマスのイルミネーションだけが滲みながら揺れていた。
そして僕の意識は、音もなく闇に切り取られた。
「シェフ・・・大丈夫ですか!シェフ!」
誰かの声に呼ばれている。
身体を揺さぶられる感覚で、ゆっくりと意識が浮かび上がった。
重たい瞼を開くと、すぐ前に心配そうにこちらを覗き込む優里ちゃんの顔があった。
「・・・優里ちゃん?」
喉がひりつき、声がうまくでない。
ゆっくりと身体を起こし、店内を見回す。
ひどい有様だった。
クリスマスの飾りつけは床に落ち、商品プレートやトレーが無残に散らばっている。
つい、さっきまであった温かい空気が嘘のように消え失せていた。
「さ・・・さくらさん・・・!さくらさんは・・・?」
優里ちゃんは一瞬、言葉を選ぶように視線を落とし、それから静かに告げた。
「・・・落ち着いて、シェフ。さくらさん、連れて行かれたの・・・」
その一言で胸が締め付けられた。
「なっ・・・取り戻しに行ってくる・・・」
床に手をつき、無理やり立ち上がろうする。
「・・・痛っ!!」
身体中に鋭い痛みが走り、力が抜けて崩れ落ちた。
「無理よ・・・そんな身体で・・・」
分かっている。
頭では分かっているのに、身体だけが思うようについていこない。
焦りだけが、心臓の鼓動と一緒に大きく鳴り響いていた。




