第一章 2話 森からのご褒美
アースウオッチが鳴った。
画面をタップすると相手の顔が浮かび上がり、まるで目の前にいるかのように会話ができる。
「シェフお疲れ様です。今良いですか?」
ぱっちりとした二重まぶた。
ほんのりウェーブがかったセミロングの髪。
いつも店で見る制服姿とは違う私服姿の優里ちゃんは、どこか大学生らしい柔らかな雰囲気だった。
「おお、お疲れ」
思わず笑みがこぼれる。
焚き火台の前に置いたチェアへ、深く腰を掛け直した。
「どうしたの?珍しいね、電話してくるなんて。今日学校じゃないの?」
「今日は午前で終わりなんです」
優里ちゃんは嬉しそうに頷いた。
「いや、さっきね。学校帰りにキャンパススクエアで買い物してたんですけど、そこでばったり東澤さんに会ったんですよ」
「東澤さんに?」
思わず聞き返す。
東澤さんは、リュミエールの常連のお客さまだ。
伊川谷駅から二駅先、西神中央の大きな病院で看護師をされている方でもある。
いつも赤いふちの眼鏡をかけていて、フレンチカントリー調の服を上品に着こなしている、とてもおしゃれお姉さまだ。
店に来るたび明るく話しかけてくれるので、こちらまで元気をもらえる。
「へえ、元気そうだった?」
僕はマグカップを手に取りながら尋ねた。
「はい。いつものように元気でした」
画面の向こうで優里ちゃんが笑顔で頷く。
「で、その東澤さんが急遽明日、お世話になってる英会話の先生とお茶する事になったから、カウンター二席予約出来ないかって」
「ああ、なるほど」
僕は小さく頷いた。
東澤さんなら、そういう急な予定も楽しそうに話しそうだ。
「おお、分かった。カウンター席二名様予約ね。了解」
「2時過ぎには行くとおっしゃっていました。メニューはいつものようにシェフにお任せって」
「分かった。ありがとう」
「よろしくお願いします」
そう言って優里ちゃんが手を振る。
僕も軽く手を振り返すと、通話はそこで切れた。
再び、市ケ原の静かな時間が戻ってくる。
川のせせらぎ。
時折吹き抜ける冷たい風。
「明日の2時に、カウンター席予約っと・・・」
そのままアースウオッチに、さっきの通話を文字に変換して記録。
「よし。これで大丈夫」
そう呟き、冷めないうちに珈琲へ口をつけた。
僕が幼かった頃、両親はスマートフォンと呼ばれる携帯電話を使っていた。
それを使って、一緒にテレビを観たり、音楽を聴いたりしていたのを思い出す。
今ではすっかり腕時計タイプのアースウオッチが主流になり、ボタンをタップすれば画面が大きく浮かび上がる。
通話はもちろん、映画を観たり、株価の変動をチェックしたり3分おきに更新される天気予報を見たり出来る。
買い物の支払いも、ウオッチペイと呼ばれるアプリで出来る。
大変便利になった世の中だが、僕はかえってそれがストレスに感じる事があり、デジタルデトックスを兼ねて、時々こうして自然の中に身を置くようにしている。
父も同じ考えで、今でも買い物する時は現金を使用している。
SNSで呟くような事もしていないし、写真や動画を投稿する事もない。
友人達からは、化石とかオールドスタイルとか言われているが、逆に僕はそのオールドスタイルという呼ばれ方が気に入っている。
ネットが繋がる環境も年々良くなり、自然の中に身を投じても大抵の所は繋がる。
休日はいっその事、電源をオフにすれば良いのだが、先程のように仕事の連絡が入る事があるので、中々そういう訳にもいかない。
珈琲を飲み終えた僕は、名残り惜しそうに景色をもう一度眺めて立ち上がった。
急ぐ理由はない。
足元に咲く小さな花や、風に揺れる若葉を眺めながら、僕はゆっくりと辺りを散歩した。
ふと、目にとまったどんぐりを、そっと拾い上げる。
掌の上で転がしたそれは、木漏れ日を受けて小さく艶めいていた。
「山の神様。どんぐりを一つだけいただきます」
そう呟いて、胸の前で静かに手を合わせる。
風が梢を揺らし、葉擦れの音が頭上を通り過ぎていった。
――山で、どうしてもトイレを我慢できなくなった時や、綺麗な落ち葉や木の実を持って帰りたい時は、一言、山の神様にお伝えしてからにするんだぞ。
幼い頃、父に言われた言葉だった。
子どもの頃はよく分からなかったけれど、大人になった今も、その約束は守り続けている。
どんぐりをポケットに入れて、ゆっくりと周囲を見渡した。
澄んだ空気。
木々の隙間から差し込む柔らかな陽射し。
遠くで響く鳥の声。
ほんの数時間だったけど、山に来て良かった。
身も心も来た時よりも軽くなっている。
明日からまた頑張れる。
そう確信した僕は足取り軽く、新神戸駅へと繋がる登山道を下った。
なぜだろう。
春はまだ少し先のはずなのに。
今年は何か良いことが起こりそうな気がした。




