第一章 1話 冬空にほどける、コーヒーの香り
ゴゴゴゴ・・・・
低く唸る空。
空は鉛色に沈み、雲が渦を巻いている。
横殴りの雨が海面を叩きつけ、白波が砕け散る。
ザバーンッ
ドシャーンッ
巨大な波が岸壁を越え、街灯をのみこむ。
黒い海がうねり、まるで生き物のように脈打っている。
ウウウウウ・・・・・
消防車が水しぶきを上げて走る。
「もう誰も残っていませんかー!」
拡声器の声は、風にちぎられて消える。
隊員達は雨に打たれながら一軒一軒、声を張り上げる。
「避難指示が出ています!高台へ!」
若い隊員が顔をしかめる。
「田崎先輩、声がかき消されます・・・」
先輩隊員は目を細め、耳を澄ます。
「あきらめるな!必ずいる!」
―そのとき。
風の奥から、かすかな声。
「・・・ママー・・・」
若い隊員が振り向く。
「・・・聞こえましたか?」
「・・・ああ」
再び。
「ママー・・・・」
瓦礫が積み重なった建物の陰から、か細い声が聞こえた。
雨に打たれた制服は泥に汚れ、小さな肩が震えている。
「いたぞ!」
崩れたコンクリートを乗り越え、少女のもとへ駆け寄った。
「大丈夫だ。もう大丈夫だよ」
膝をつき、できるだけ優しく声をかける。
少女はうつむいたまま、濡れた前髪の奥で唇を震わせた。
「ママとはぐれちゃったの・・・」
ぽつりと落ちた言葉に、胸が締め付けられる。
「今日はね・・・ママの誕生日だったの。一緒にケーキを買いに行く約束をしてたのに・・・」
その声は、雨音に溶けそうなほど小さかった。
遠くの空が白く光る。
直後――
ドオオォンッ・・・!
腹の底から響くような落雷が鳴り、大地がわずかに震えた。
(急ごう・・・)
女の子を背中に背負い、待機している車へ向かって走り出す。
雨はますます強くなり、瓦礫の隙間を吹き抜ける風が冷たい。
その途中だった。
ふと、隣を走っていた先輩の足が止まる。
「田崎先輩・・・何やってるんですか?先輩も一緒に・・・」
先輩隊員は首を振る。
「もしかしたら、母親がこの子を探しに戻って来てるかもしれない。松井、お前は先にこの子と避難所へ迎え。俺は残って周辺を探してくる」
「・・・何言ってるんですか!危険です!!」
「いいから行け!」
その一言は、嵐よりも強かった。
一瞬、風が止む。
世界が静まり返る。
海が、不自然に引いていく。
目を見開く。
「・・・・・なんだ、あれ」
水平線が盛り上がる。
――壁。
黒い水の壁。
海峡大橋をのみこむほどの高さで、迫ってくる。
無音。
次の瞬間。
ドオオオォォォンッ!!!!!!!
水と衝撃が世界を白く塗りつぶす。
「逃げろ!!その子を守れ!!!」
少女の叫び。
「センパーイ!!!!」
アクセルを踏み込む。
タイヤが空転する。
水が迫る。
光が消える。
暗転。
嵐の音が、ゆっくりと遠ざかる。
やがて――
無音。
・・・・・・
かすかな風の音。
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――10年後。
ピーヒョロロ、ピーヒョロロ。
澄んだ空気を震わせる鳶の鳴き声が、やわらかく響き渡る。
上昇気流をつかんだその影は、緩やかな弧を描きながら空へと舞い上がっていく。
まるで広い空に抱かれて、誰よりも自由に気持ち良さそうに。
久しぶりのデイキャンプ。
平日だからか普段は賑っている、この川原も今日はひっそりとしている。
ここは市ヶ原。
新神戸駅からすぐの登山口から歩き始めて、比較的緩やかな登山道を1時間ほど足を運べば辿り着く、自然が静かに広がる美しい河原。
神戸の街と北区に住まれる人達が、互いの生産物や商品を交換する”市”が行なわれていた事からついた地名だと言われている。
布引谷と東再度谷の二つの谷の流れが合わさって、広い川原を作っている。
この場所を初めて訪れたのは、僕がまだ小さかった頃。
ランドセルの重さより、父の背中の大きさのほうが気になっていた時代だ。
登山が好きだった父は、休みが合うと僕の手を引き、まだ見知らぬ世界へと連れ出してくれた。
その日も澄んだ川音が響くこの場所で休憩を取った。
父が小さなバーナーを取り出し、慣れた手付きでカレーを作ってくれた。
湯気に混ざって漂うスパイスの香りと、木々の香りが嗅覚を刺激して、山で食べるご飯の美味さに感激したのを覚えている。
そんな父も今ではパティシエを引退して、長年の夢だった長野のアルプスへ移り住んだ。
麓から見上げれば雲に触れそうな尾根が続くその山々で、父は山小屋スタッフとして働いている。
パティシエだった経験を活かして、山小屋の設備でも作れるシフォンケーキやクレームブリュレ、パウンドケーキ等のスイーツを仕上げて、山を訪れる人達、特に女性の登山客達に大人気となっているようだ。
母も、そんな父についていき、料理人だった経験を活かして、山で本場のフレンチが食べられると大きな話題を生むほどの人気シェフとなっている。
二人して元気に好きな事をやっているようで、息子としてはこんなに嬉しい事はない。
シュゴ―。
父から譲り受けたシングルバーナーでお湯を沸かす。
ちょっとした近場でのデイキャンプなら、火元はこれで十分。
神戸マラソン2046とプリントされたお気に入りのマグカップに、ドリップコーヒーをセットして、ゆっくりとお湯を注ぐ。
ちょっとしたこだわりとして、シナモンスティックも入れる。
風味が良くなるだけでなく抗酸化作用もあり、血糖値を抑える効果もある。
仕事柄、当分を摂取する率が一般の人よりも多い為、なるべく身体には気を使っている。
だからと言って、健康オタクでは無い。
気にしすぎて、かえってそれがストレスになってしまったら本末転倒だ。
「・・・うん、美味い」
淹れたての珈琲に、少しだけミルクを入れて、シナモンスティックで混ぜてからいただく。
さらさらと流れる小川のせせらぎを耳にして、ただただ自然の中で珈琲を飲む。
――最高だ。
こんな贅沢な事はない。
怒涛のような忙しさのクリスマスを終え、そのまま年末年始の焼菓子ギフト商戦に突入。
焼き菓子の詰め合わせや贈答品の準備に追われるうちに年が明け、休む間もなくバレンタインのショコラ制作が始まった。
テンパリング。成形。包装。
気の遠くなるような作業を繰り返しながら、気づけば二月も終わりを迎えていた。
そして昨日。
大きなイベントのひとつ、バレンタインが、ようやく無事に終わった。
大きなトラブルもなく、お客様に喜んでもらえた。
それだけで十分だ。
今日は、働き続けてきた自分への、ささやかなご褒美。
自然の中で、ソロデイキャンプを楽しみに来た。
標高が低いとはいえ、二月下旬の山は寒い。
暖をとるために焚火でもしようと、枯れ木を集めに行こうと立ち上がった。
―そのときだ。




