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第五章 2話 夏空と水平線

そのまま僕達は、潮風を感じながら海沿いの道を走り抜け、ゴールに予定していた舞子浜へと辿り着いた。


夏休みが終わり、平日の午前中ということもあって、広い浜辺に人の姿はほとんどない。


視界いっぱいに青く澄んだ海がどこまでも広がり、白い波が砂浜へと静かに寄せては返す。


耳に届くのは、規則正しいさざ波の音と、沖合を行く船の汽笛だけ。


潮の香りを含んだ風が火照った身体を優しく撫で、その心地良さに思わず深く息を吸い込んだ。


隣を見ると、さくらさんも足を止め、穏やかな表情で海を眺めていた。


額に浮かんだ汗の粒は真珠のようにきらめき、その一粒一粒さえ不思議なくらい綺麗だった。


「さくらさん。ナイスランです」


肩で呼吸を整えながら声をかけると、さくらさんがこっちに振り返った。


「ありがとうございます。シェフのおかげで、走る気持ち良さが分かったような気がします」


そう言って微笑む。


その笑顔はどこか晴れやかで、本当にランニングを楽しんでくれたことが伝わってきた。


「それは良かった」


僕は海へと視線を向ける。


「ねえ、さくらさん。海の向こうに島が見えるでしょ。あれが淡路島」


水平線近くに浮かぶ大きな島影を指差した。


さくらさんも僕の隣に並び、その先へ視線を向ける。


「昔は、ここから淡路島にかけて、車で渡れる大きな橋があったらしいよ」


「橋ですか?」


「うん。海峡大橋って呼ばれてたみたい」


その言葉に、さくらさんは小さく海を見つめた。


「海峡大橋・・・」


まるで、その名前を記憶の中から探るように。


潮風が二人の間を吹き抜けていく。


僕は再び海の向こうへ目を向けた。


「なんでも、上昇し続ける温暖化の影響で南極の氷が溶けていってさ、ある年の夏、大きな台風と重なって大災害が起きたらしいんだ」


穏やかな海からは想像もできない。


けれど、この場所にも確かにその爪痕は残っている。


「この海にも大津波が押し寄せて、それが原因で橋は壊滅しちゃったんだって」


白い波が静かに砂浜へと広がり、また海へと帰っていく。


その景色を見ながら話していると、なおさら信じられない気持ちになる。


「当時、僕はまだ幼かったし、伊川谷までは津波の影響も来なかったみたいだから、全然覚えてないんだけどね。両親から聞いた話なんだ」


津波の話を聞いた瞬間、さくらさんの表情から血の気がすっと引いた。


「そうでしたか・・・」


唇を嚙みしめる。


伏せたままの視線が、やがて今はもう存在しない海峡大橋のあった方角へと向く。


「なんだか、ざわざわした気持ちになります・・・」


そう呟いたさくらさんは、小さく手を胸の前で重ねた。


そのまま目を閉じると、言葉にないまま静かに黙祷を捧げた。


その横顔を見ているだけで、今この場所で眠る人たちへの想いを向けていることが伝わってきた。


やがて、さくらさんはゆっくりと目を開いた。


長いまつ毛が微かに揺れる。


少しの間だけ、二人の間に静寂が流れた。


「・・・すみません」


声が漏れた。


「悲しい気持ちにさせる為に、こんな話をしたんじゃないんだ・・・ただ」


潮風が吹き抜け、僕の言葉をさらっていく。


「・・・ここから見渡せるこの景色が好きで、さくらさんにも見せたかったんだ」


視線の先には、穏やかな海がどこまでも広がっている。


青い空と海の境界が溶け合い、その向こうには淡路島の影が静かに浮かんでいた。


「変な話ししちゃって、本当にごめんなさい・・・」


この人には悲しい顔をしてほしくない。


そう思った。


出会ってまだ数か月しか時間は経っていないのに、不思議なくらいそう思ってしまった。


困っている時は、力になりたいし、落ち込んでいる時は元気になってほしい。


そして、出来ることなら


ずっと、その優しい笑顔でいてほしいと思った。


「・・・いえ、本当にあった話ですから。知れて良かったです。教えて下さって、ありがとうございます」


さくらさんはそう言って、僕を安心させるように柔らかく微笑んだ。


その表情に、胸の奥で張りつめていたものが少しだけほどけていく。


そっと吹き抜けた海風が、ポニーテールをふわりと揺らした。


陽の光を受けて、揺れる髪がきらきらと輝く。


まるで何事もなかったかのような穏やかな笑顔。


まっすぐこっちを見つめる瞳。


視線が重なるたびに、胸の鼓動が少しずつ速くなっていく。


僕は慌てて海へと視線を逃がした。


「ち・・・ちなみに、進化し続けているウェザーリポートシステムのおかげで、津波に関する情報は前もって住民に届いていたそうです」


さっきまでより少し早口になっている気がした。


「橋は無くなってしまいましたけど、海沿いに住む人達の被害は最小限に抑えられたみたいで・・・」


僕は海の向こうへ目を向ける。


今は穏やかなこの景色も、あの日はまったく違う表情を見せていたのだろう。


「100%全員が無事だったわけではなかったようですが、それでもたくさんの命が助かったと思えば、化学の進歩にも感謝ですよね」


そう言いながら、自分の左手首へ視線を落とす。


そこには使い込まれたアースウオッチが巻かれていた。


「オールドスタイルを好む僕がアースウオッチを着けているのも、その年から全国民に国から配布されるようになったからなんです」


そう説明すると、さくらさんは僕の左手首へ視線を落とした。


「そうでしたか・・・。でも、黒電話を使っているようなオールドスタイルのシェフにはちょっと似合わないかも」


くすっと口元を緩めながら、さくらさんが言った。


からかうようでいて、どこか照れも含んだ表情。


意地悪そうに、はにかんだ微笑みが彼女の唇にそっと浮かんでいた。


「・・・確かに。自分でもそう思います」


素直にそう返すと、さくらさんは一瞬目を丸くしたあと、


「フフフッ」


と、楽しそうに笑い声を漏らした。


その笑顔につられるように、僕も笑ってしまう。


夏の朝の舞子浜。


寄せては返す波の音と、遠くを行き交う船のエンジン音。


そんな穏やかな景色の中で聞こえるさくらさんの笑い声は、潮風よりも心地よく耳に残った。


「楽しかったですね」


そう伝えると、さくらさんは朝日に照らされた海へ視線を向けた。


「はい。とても楽しかったです」


振り返ったその顔には、心から満足そうな笑顔が浮かんでいる。


「これからも時々、一緒に走っていただけますか?」


少しだけ遠慮がちに尋ねる声。


「はい、もちろんです。喜んで」


そう答えると、さくらさんの表情がぱっと明るくなる。


「じゃあ、次は高い所が良いです。山とか・・・なるべく高い場所」


さくらさんはそう言いながら、両手を広げて空を見上げる。


潮風に揺れるポニーテールが、朝日に透けてきらりと光った。


「では、六甲山にしましょう。ロードとは違う楽しみ方が出来ますよ」


そう伝えると、


「やったぁ」


さくらさんは小さく声を上げ、嬉しそうに両手を胸の前で握りしめた。


二人で眺める舞子の海は、昇りきらない朝陽を受けて、無数の光を散らしながらキラキラと輝いていた。


その眩しさに、時間の感覚さえも溶けてしまうほど、ただ綺麗だと思えた。




こんな幸せな時間がいつまでも続けば良い。


そんな願いを胸の奥にしまい込みながら。


僕は目の前に広がる大きな海と、


潮風を頬に受けて目を細めるさくらさんの横顔を静かに眺めていた。

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