第五章 1話 夏風に揺れるポニーテール
あの日から数日が過ぎた。
残暑の厳しい夏の早朝。
リュミエールは静かな定休日を迎えていた。
今日は、さくらさんと初めて一緒に走る約束の日だった。
休みの日には時々ランニングをしていると話すと“たくさん走る気持ち良さを味わってみたい”と、さくらさんからの希望で、一緒に走ることになった。
雲ひとつない青空が広がっている。
強い日差しになる予報だったが、朝の空気はまだ少しだけ涼しく、頬を撫でる風が心地良い。
絶好のランニング日和だ。
「シェフ」
聞き慣れた優しい声に顔を上げる。
さくらさんが小走りで駆け寄ってきた。
白いTシャツにブルーの短パン。
その下には黒いタイツを合わしている。
走りやすいように長い髪を高い位置でポニーテールにまとめている。
朝陽を受けて、揺れる黒髪がきらりと光り、そのたびに目を奪われた。
思わず言葉を失う。
いつも綺麗な人だとは思っていた。
けれど、こうして店の外で会うさくらさんはどこか新鮮で、いつも以上に眩しく見える。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
さくらさんは嬉しそうに微笑みながら、小さく頭を下げた。
その仕草に慌てて我に返る。
「お、おはようございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
返事をしながらも、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
「すごく良い天気ですね」
さくらさんが空を見上げる。
つられて見上げると、夏の青空がどこまでも広がっていた。
さくらさんは目を細め、にっこり微笑んでいる。
雲ひとつない空よりも、その表情のほうが眩しく感じられる。
昨日も一緒に働いていたはずなのに、今日は立ち振る舞いも違って見える。
そのせいか、胸の奥が落ち着かず、言葉を選ぶ指先にまで緊張が伝わってくる。
「は・・・はい。そうですね。じゃあ、早速行きますか」
「はい。よろしくお願いします」
軽く準備運動を済ませて、僕たちは走り出した。
いきなり速いペースで走れば、さくらさんはついてこられないだろう。
せっかく楽しみにしてくれているのに、最初から苦しい思いをさせるわけにはいかない。
まずは様子を見ながらだ。
会話しながらでも走れるくらいの、ゆっくりペースで足を運ぶ。
朝の空気は澄んでいて気持ち良い。
吹き抜ける風が頬を撫で、どこからかツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきた。
1キロほど走った所で、さくらさんが歩幅を合わせるように隣へ並んだ。
「シェフ。今日はどれくらいの速さで、何キロほど走りますか?」
呼吸はまったく乱れていない。
走り始める前と変わらない穏やかな表情に、思わず感心する。
「さくらさんのペースに合わそうかと思ってます。もう少しゆっくりいきますか?」
そう尋ねると、さくらさんは首を横に振った。
「シェフは普段、どれくらいのペースで走ってますか?」
「その時の体調によりますけど、大体キロ6分くらいで10キロくらい走ってますね」
僕が答えると、さくらさんは何かを計算するように視線を宙へ向けた。
「キロ6分で距離10キロ配分・・・」
ぶつぶつと小さく呟いている。
不思議に思っていると、さくらさんは小さく頷いた。
「インプットしました」
次の瞬間だった。
さくらさんがすっと前に出る。
ポニーテールを揺らしながら、さっきまでとは明らかに違うペースで走り始めた。
「え?」
思わず声が漏れる。
初心者が走るようなペースじゃない。
「そんなに飛ばして大丈夫ですか?疲れたらすぐに休憩しますよ」
慌てて声を掛ける。
「大丈夫ですよ。フフッ」
振り返ったさくらさんは、涼しい顔で答えた。
僕は少し驚きながら、その背中を追うようにペースを上げた。
残暑の朝日が街並みを照らしていた。
信号待ちで立ち止まるたびに、さくらさんの様子を確認するが、息が上がっている様子はない。
むしろ、景色を楽しんでいるように見えた。
ペースの上げ下げは体力を消耗する。
ランニングエコノミーと呼ばれる一定のリズムをキープしながらのランのほうが楽しく長く走れる。
僕は腕に着けたアースウオッチへ視線を落とした。
いつも登録しているキロ6分のペースを表示させる。
画面に表示された数値を見ながら歩幅を整え、さくらさんの隣へ並んだ。
「これくらいのペースを保ちながら行きましょう」
「はい。ありがとうございます」
にっこり微笑むさくらさん。
予定していたのは伊川谷から舞子浜までを走る約10キロのルートだった。
もしさくらさんが途中で疲れたり、少しでも脚に痛みを感じたりしたら、すぐに切り上げられるように、バス停の多い道を選んでいた。
だが、そんな僕の心配をよそに、さくらさんはそのまま颯爽と走り続けていた。
朝の陽射しは少しずつ強さを増し、アスファルトから熱気が立ち始めている。
それでも、さくらさんの呼吸は乱れない。
運動習慣のない人なら、大抵5キロくらい過ぎれば息が上がり、顎も上がってくる。
腕振りが小さくなったり、着地が重くなったり。
フォームも乱れてくる。
けれど、さくらさんには、それがまったく見当たらなかった。
背筋は自然に伸びている。
肩の力も抜けている。
足音は驚くほど静かで、一定のリズムを刻み続けていた。
―そして何より
ペースを上げない。
キロ6分。
決めたペースを寸分違わず守り続けている。
規則正しく運ばれる足。
無駄のないフォーム。
まるでプロランナーのような美しい走り方だった。
舞子浜へ続く歩道を進む。
朝の散歩を楽しむ人。
犬を連れて歩く人。
通勤途中らしい人。
すれ違う人達の視線が、自然とさくらさんへ向く。
そして、その多くが振り返っていた。
無理もない。
朝日に照らされた白いTシャツ。
風になびく黒髪。
まるで、スポーツ雑誌の表紙から飛び出してきたモデルさんのようだった。
本人は、まったく気づいていないらしい。
景色を楽しむように、近づいてきた海に目を向けたりしている。
その自然体なところが、余計に人を惹きつけるのかもしれない。




