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煮込みの湯気と、残っていた気持ち

 ここ数日、朝の音が文の中で、自分の日常の一部として受け取られるようになっていた。


鳥の声。

鍋の蓋が触れ合う音。

木の床を歩く足音。


それらがただの「風景」になり、文は自然のその中に身を置けるようになっていた。


そんなある日の朝、文は食事部屋の一角に座って、調理の様子を眺めていた。

火にかけられた鍋。刻まれる根菜。乾いた葉を、指で砕いて落とす仕草。


「あの、みなさん……普段、何を召し上がっているのですか?

……わたし、こちらの食事のことを、まだよく知らなくて」


問いかけた相手は、長老づきの調理人だ。年配の男性で、背は高くない。包丁を置く音すら、やけに落ち着いている。


「季節次第ですね。根菜、豆、木の実。あとは――煮る」


「煮る」


「ええ。焼けば香りは立つ。ですが身体を整えるのは、煮込みです」


「やはり、煮込みですよね。私も好きです。だしもよく出るし」


調理人の手が、わずかに止まる。


「だし、とは?」


文は、息をひとつ吸った。


「……水に、何かを入れて、ゆっくり煮て……その中にあるものを、出す、というか」


言いながら、自分でも心もとないと感じる。自分の口から出た言葉のはずなのに、輪郭が定まらない。


調理人は、鍋を覗き込む。


「なるほど」


ゆっくりとうなずいた。


「それなら、同じことをしています」


「同じ……?」


「水に、根と葉と骨を入れ、火を当て、内にある力を引き出す。

名は違えど、やっていることは変わりません」


文は、湯気の向こうを見つめた。


「……そう、ですね」


調理人は、鍋をひと混ぜする。


「名を知らずとも、身体は覚えているものです」


鍋の表面に、小さな泡がゆっくりと浮かんでは消えていた。

文は、立ち上る匂いを吸い込む。


「……これ、好きです」


「作ったことは?」


問われて、文は言葉に詰まった。


「……たぶん、あるのだと思います」


「気がする、ですか」


「はい。でも……」


続けようとして、止まる。

鍋を覗き込み、味を見て、首をかしげる。そんな自分の姿だけが、ぼんやり浮かんだ。


「では、今日は『横で見る』だけにしておきましょう」


「そうします」


文は答えると、鍋の前に立つ調理人の隣に立った。

調理人は教えるでもなく、試させるでもない。

文は、しばらく黙って湯気を眺めていた。


「……わたし……料理、好きだったんだと思います」


調理人は返事をしない。椀をひとつ、文の前に置いた。


「でも、思い出せないんです。

何を作っていたのかも、誰に作っていたのかも」


文はそこで言葉を切る。


「分からぬうちは、無理に作らなくてよいのです」


調理人は、火を弱めながら言った。


「今は、味を受け取る途中なのですから」


文は、ゆっくりとうなずいた。

その日の煮込みは、いつもより淡い味だった。


それでも、確かに深い。


椀を持ちながら、文は思う。

料理が、好きだったのかもしれない。


思い出せなくても、

湯気を見ていると、手が動きそうになる。


知らない世界で。

知らない体で。


自分が何者なのかもわからない。だが、胸の中に時々溢れる懐かしさや愛おしさは、本物なのだと思う。


椀の中の煮込みは何も語らず、ただ温かかった。

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