出番のない一日
ある夜、文は夢を見た。
はっきりとした景色はない。色も、輪郭も、曖昧だ。
ただ、抱え込まれている。
腕ではない。人の体温とも、少し違う。
しかし、なぜか落ち着く。
胸のあたりに、重みがあり、小さくて、やわらかい。ずっと昔から知っているような感触。
――大丈夫。
声だったのか、そう思っただけなのかは、分からない……。
朝目覚めたとき、文はしばらく動けなかった。夢の内容は、すでに薄れている。
身体は少し重い。エルフになってからも、そんな日は時々ある。それでも身体を起こし、「ふう」と息をはいた。
朝食は、いつも通り用意されていた。
温かなスープ。
やわらかい果実。
今日は、一口目で分かる。
「あ……」
昨日より、さらに淡い味。
刺激が、ほとんどない。それなのに、きちんと満たされる。
まるで、これ以上いらないと知っているみたいだ。
「……調整、細かいな」
文の呟きに、エルカディアは微笑むだけだった。
「エルカディアさん、今日は……あの場所へ行ってみたいです」
「村の奥へ、連れて行っていただけませんか」
文は自分の気持ちを確かめるように、ゆっくりと言った。
命の樹は、変わらずそこにあった。しかし今日は、近づく前から違和感がある。
前回来たときより、「近づきすぎてはいけない」感じが強い。
「……見るだけにしよう」
幹には触れずに、ただ、根元の近くに腰を下ろした。
風が、静かに葉を揺らす。
その音を聞いているうちに、文の意識はだんだんと内側へ沈んでいった。
半分夢のような状態で、文は何かが「そこにいる」のを感じた。
視界の端。
肩のあたり。
見えないのに「いる」と分かる存在。
振り向こうとすると、なぜか、止められる気がした。
――今は、見なくていい。
代わりに、あの懐かしい重みだけが、そっと戻ってくる。
抱きしめられている、というより「支えられている」。
気づけば、エルカディアがそばにいた。
「……わたし……眠っていましたか」
「ええ、そのようですね」
エルカディアの手を借りて立ち上がると、足元がふらついたが、倒れはしなかった。
「ここまでにしましょう」
「はい」
もう十分、受け取った。
そう思えた。
その夜。エルカディアの私室は、いつも通り静かだった。祭壇布をかけた台座の上に、いつものぬいぐるみが座っている。エルカディアはそれを一瞥してから、書類を整えた。
「……今日は、出番なしだな」
返事はない。だが部屋の空気は、どこか整っている。エルカディアは、ふっと息をついた。
「……よくやっている」
ぬいぐるみは、何も言わず、何も動かず、そこにあった。
それでいい。
今は、それが一番いい。
その夜、文は夢を見なかった。




