気づかれぬ影
エルカディアの私邸は、村の中でも特別に静かな場所だった。
音が遮られているわけではないし、外の気配はきちんと届いている。
だがここでは、余計なことが起こらない。
エルカディアは扉を閉め、深く息をついた。
「……ふう」
その視線が、自然と部屋の奥へ向かう。
祭壇布をかけた小さな台座。
そこに腰掛けているのは――
パンダのぬいぐるみだった。
丸い顔。
少し垂れた黒い耳。
何度も撫でられたのだろう、毛並みは柔らかく、ところどころ毛羽立っている。
その身体には、淡い色のセーターが着せられていた。
編み目は丁寧で、しかし完璧ではない。
手作りだと、ひと目でわかる。
ズボンは、さらに素朴だった。
色柄の違う布をつなぎ合わせたような作りで、それが誰かの古い服から作られたものだと、エルカディアは知っている。
そして、肩から斜めにかけられた小さな鞄。エルカディアの目がやわらいだ。
「……本当に、大切にされていたのだな、ゴロー」
ぬいぐるみの黒い耳が、わずかに揺れた。
「それはそうさ」
「七歳の誕生日だよ。おばあちゃんからもらった、最初の『相棒』さ」
「……相棒、か」
ゴローは、自分のセーターの裾を、ほんの少しだけつまんだ。
「母親が編んだ。ズボンは文のおさがり。この鞄にも、ちゃんとお小遣いを入れてくれてたんだ、当然僕は使えないけどね」
エルカディアは、ゆっくりとうなずく。
「……あの子の時間が、ここにあるのだな」
「そうだね」
ゴローは台座の上で足をぶらぶらさせた。
綿の詰まった小さな足が、行儀悪く、ぱたぱたと揺れる。
「それで?」
ゴローは、少し首をかしげた。
「今日は、どうだったの」
長老は、椅子に腰を下ろし、今日の出来事を語る。
朝の様子。
食事の変化。
命の樹に触れたこと。
「怖がらなかった。……受け取りすぎることもなかった」
「だろうね」
ゴローは、どこか誇らしげだった。
「あるじは、そういうところあるんだよ。一線を引ける冷静さはある。なのに、時々、無理しようとするんだ」
「よく知ってるな」
ゴローは、少しだけ黙った。
「……だから、守りがいがある。僕はそのためにここにいて、ずっと待っていたんだから。ぬいぐるみだった僕が、まさかエルフの長老と、友達みたいに話す日が来るとはね」
軽く言ったつもりだろう。だが重さは隠せていなかった。
「今は、まだ名乗らないのだな」
エルカディアの問いに、ゴローは即答した。
「まあね」
「呼びかけることも?」
「しないよ」
ゴローは、鞄に手をかける。
中には――あれが入っている。
女神から渡されたもの。
結界と治癒の源。
そして、限界を越えたときの、最後の鍵。
「まだ目覚めたばっかりだよ。自分の足で、世界を知る時間がいるでしょ」
「……静かな番人、というわけか」
エルカディアがそう言うと、ゴローは否定しなかった。
「うるさく守るやつは、番人とは言わないよ」
それきり、ゴローは動かなくなった。声も、止んだ。ただのぬいぐるみのように、そこに座っている。エルカディアは立ち上がり、部屋を出る前に振り返る。
「百年、か」
その言葉が残したものは、静けさだけだった。時は、ゆっくりと過ぎていく。文は、その変化に気づくこともなく眠っていた。
知らないところで。誰よりも古く、誰よりも身近な存在が、今日も番をしている。




