我が名はアウレリオン
フィーネは石碑の文字を一つ一つ指で辿った。見たことのない文字だったが、不思議なことに、そこに刻まれた言葉の意味ははっきりとわかった。
我が名はアウレリオン
土の精霊なり
「あの……、アダムさん。オヤリ様はアウレリオンという名前なのではないですか」
アダムは不思議そうにフィーネの顔を見た。
「いえ、オヤリ様ですよ。我々の先祖がオヤリ様から直接お聞きしたのですから間違いないと思いますが」
「そうですか。でも、ちょっと変なんです。ここには『我が名はアウレリオン』と書いてあるものですから」
アダムは今度こそ驚いてフィーネの顔をまじまじと見た。
「もう、読めたのですか? 学術院の学者たちも読めなかったのに……」
セレナはフィーネの肩越しに石碑をのぞき込んだ。しばらく文字を目で追っていたが、やがて困ったように眉を寄せた。
「フィーネ、本当にこれが読めたの?」
「はい。この文字は見たことのないものなのですが、どういうわけか普通に読めるんです。『ルミナリエル建国史』を読むみたいに」
「普通に……」
アダムはあっけにとられたようにフィーネを見つめたあと、ヘルミオのほうへ振り返った。ヘルミオが静かにうなずくのを見ると、ほっとしたように大きく息を吐いた。
「ああ、本当に、エルカディア様に相談してよかった……」
そう言って、一息つくとすぐにフィーネに向き直った。
「それで、フィーネ殿、続きはどんなことが書かれているのですか」
「ああ、ええと、そうですね、我……」
フィーネが石碑に視線を戻して、続きを読み始めたところで、ヘルミオがフィーネに声をかけた。
「フィーネ、そこまでにしましょう」
アダムは思わず一歩身を乗り出した。
「しかし、ヘルミオ様……」
「いいえ、今日はここまでです。もう日も暮れています。それに、洞窟の前で何があったか忘れたのですか。フィーネは今日、初めてあんな戦いに巻き込まれたのですよ」
アダムはハッとしたように顔色を変えた。
「……そうでした。急かしてしまって申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です。わたしも、続きは気になりますから」
フィーネはそう言いながら、名残惜しそうにもう一度石碑へ目を向けた。
「ほら、続きは明日よ」
セレナはフィーネの両肩に手を添えると、そのままくるりと入り口のほうへ向かせた。
「では、戻ろうか」
ヘルミオが皆に声をかけると、一行はアダムを先頭に洞窟を出た。
村長の家に戻ると、夕食の準備ができていた。食卓には、アダムとクララ、ヘルミオ、それにフィーネが席についた。
「こちらが、この村の名物のキノコ料理です。お口に合うといいのですが」
クララが手で示した皿には、数種類の炒めたキノコが盛られていた。
「この辺りは、いろいろなおいしいキノコが採れるんですよ」
フィーネは早速、キノコを口にした。豊かな香りが口いっぱいに広がり、噛むたびに旨味を含んだ汁がじんわりとあふれてくる。中には、エルカディアの屋敷でも食べたことのないキノコが混じっていた。
「おいしいです」
フィーネが笑顔を見せると、クララも嬉しそうに微笑んだ。
「オヤリ様も、この村のキノコをたいそうお好きだったと伝わっています。お祭りでも、たくさんのキノコをお供えするんですよ」
「そうでしたか。本当においしいキノコですものね」
それからしばらくの間、食卓では穏やかな時間が流れた。ヘルミオとアダムは、今年の鉱山の採掘量や、王都への鉱石の運搬について話した。二人のやり取りは慣れたもので、以前から何度もこうした話をしてきたことがうかがえた。そのやり取りを聞いていたフィーネは、ふと気になって尋ねた。
「あの……、ヘルミオさんとアダムさんは、いつ頃からのお知り合いなのですか」
「もうずいぶん前ですね。私が王城で鉱山管理の仕事をしていた頃のことですから」
アダムは少し遠くを見るような目をした。
「クララさんも王都にいらしたのですか」
「ええ。私も王城で同じ部署で働いていたのですよ」
「お二人で同じ部署で……」
フィーネはうなずきながら、また一口キノコを食べた。
「私は男爵家の三男で、家督は兄が継ぐことになっていましたから、王立学院を出たあと、王城で働く道を選んだのです。騎士になって手柄を立て、家を興す道もありましたが、どうも私には向いていなくて。ですが、ありがたいことにこの村の村長に任命された際、一代限りの男爵位を賜りました」
アダムはそう言って、手元のグラスに口をつけた。フィーネはクララの方を見た。
「私は平民の出ですが、王立学院を出ることができたんです。子どもの頃は、村でちょっとした秀才だって騒がれていましてね」
クララが少しおどけたように言うと、アダムが首を振りながら苦笑した。
「いやいや、『ちょっとした』どころではないだろう。君が平民でありながら学院入学試験で一番になったことは、あの頃王城でもずいぶん話題になったものだよ」
「そんな、恥ずかしいですよ、あなた」
フィーネが納得したようにうなずいた。
「なるほど。それで、合点がいきました」
「どういうことです?」
「初めてお二人にご挨拶したとき、今までお会いした村長さんご夫妻とは少し違う雰囲気があるなと思ったのです。特にクララさんは、柔らかく笑ってくださったのに、なぜかわたし、少し背筋を伸ばしてしまったのです」
クララは目を丸くした。
「まあ」
「王城でお仕事をされていたと聞いて、なんとなく納得しました」
「昔からですよ。学院にいた頃から、彼女は何をしていても妙に堂々としていましたから」
アダムはクララに目を向けると、どこか誇らしげに笑った。
「そもそも、この村の村長は、代々この村の者が務めているわけではないのですよ」
ヘルミオはナプキンで口元を拭うと、フィーネに向かって言った。
「そうなのですか」
「ええ。この村は王家の直轄地ですから、村長は王城から派遣されることになっています」
アダムはうなずきながら続けた。
「この辺りで採れる鉱石は、ルミナリエルにとって重要な交易品ですからね。私も二年ほど前に王城からこちらへ赴任しました。前任者も同じく王城から派遣された者です。村長は、おおむね五十年ほどで交代することになっています」
「クララさんは、王都を離れることに不安はなかったのですか」
フィーネが尋ねると、クララは穏やかに笑った。
「もともと私はコウド村よりものどかな村で育ちましたから、むしろここでの生活のほうが性に合っているんですよ。王都ももちろん魅力はありますが、私にとっては少し息苦しい所でした」
隣でアダムが肩をすくめた。
「私はむしろ戸惑いましたよ。王都での暮らししか知りませんでしたから、欲しいものがあってもすぐには手に入らなかったり、酒場に行けば初対面の人と酒を酌み交わすことになったり……。最初の頃は、驚くことばかりでした」
「でも、今ではすっかり馴染んでいますよ。夕方、酒場に行ったきりなかなか帰ってこないんですから」
クララは「まったく、この人は」とでも言いたげにアダムを見たあと、フィーネへ視線を向けた。アダムはそんなクララを気にする様子もなく、もっともらしい顔で言った。
「皆さんが勧めてくださる酒を、断るわけにはいきませんからね」
「まあ、そういうことにしておきましょう」
クララの言葉に、食卓を囲んでいた皆が思わず笑った。その後も、王都や村での暮らしについて、フィーネも時々会話に加わりながら楽しく時間を過ごした。やがて食事を終え、皆で茶を飲んでいると、食堂のドアをノックする音が聞こえた。
「村長様、儀式の準備が整いました。そろそろ広場へおいでいただけますでしょうか」
声の主は村の若者のようだった。
「わかりました。すぐに行きます」
アダムはドアの方に向かって声をかけた。
「儀式とはなんですか」
フィーネがアダムに尋ねた。
「明日の本祭の前に前夜祭があるのですが、その前夜祭の中心となる儀式です。祭壇を作ってオヤリ様に捧げ物をして、今年一年の山の恵みに感謝するとともに、来年の鉱山の安全を祈願するのです」
アダムは立ち上がって、クララから差し出された上着を羽織りながら続けた。
「例年なら、あの洞窟の前に祭壇を作るのですが、今年は立ち入りを禁止していますので、広場で行うことになっています。皆さん、よろしければご一緒しませんか」
「いいですね、ぜひ、参加させていただきましょう」
ヘルミオは、フィーネの顔を見ながらうなずいた。アダムとクララは一足先に広場に向かうため食堂を出ていくと、入れ替わるようにセレナとフィルが顔を見せた。
「広場に行かれるのでしたら、私たちも同行します」
「ええ、お願いします」
ヘルミオがうなずくと、フィーネも席を立った。
広場に出ると、すでにたくさんの村人が祭壇の前に集まっていた。フィーネたちは儀式の邪魔にならないよう、村人たちの列から少し離れた場所に立った。
広場の中央には木製の祭壇が作られていた。板を組み合わせた簡素なものではあるが、季節のキノコや酒、パンや果物が所狭しと並べられていた。人々は小さな素焼きの灯皿を両手で持ち、祭壇脇の松明から順番に火を移していった。
皆が火を灯し終えると、アダムが祭壇の前に立って話し始めた。
「今年もまた、オヤリ様に山の恵みへの感謝を捧げ、これから一年の無事を祈る日を迎えることができました。本来であれば、この儀式はオヤリ様がいらした洞窟の前で行われるものです。しかし、今年は新たな石碑が発見されたことで、皆の安全面を考慮して広場で行うことになりました」
「どこで儀式を行おうが、私たちのオヤリ様への感謝の気持ちは変わりません。さあ、皆でオヤリ様に感謝の言葉を捧げましょう」
アダムはそう言うと、灯皿を両手で頭の上に掲げた。それを合図に村人も一斉に灯皿を掲げた。
「オヤリ様、今年も山の恵みをありがとうございます。感謝いたします。来年も、大きな事故なく、鉱山での採掘ができますよう、お守りください」
村人が声を合わせた。
「エルテスタ・オル・グレール・ソマラキア」
言い終えると、人々は隣り合う者と向き合い、互いの灯皿に蓋をかぶせて火を消していった。一つ、また一つと火が消えていき、やがて松明の火だけが広場を照らした。
「では、みなさん、オヤリ様からの恵みをいただきましょう」
アダムがそう告げると、十人ほどの村人が祭壇の前へ進み出た。酒樽の栓を開け、小さな杯へ順番に酒を注いでいく。その隣では果実水も同じように杯に注がれていた。
しばらくすると、並べられた杯を村人がそれぞれ手に取って、オヤリ様への感謝の言葉とともに、一気に飲み干した。酒を飲まない者や子どもたちは果実水を手に取り、同じように一気に飲み干した。
クララは人々の輪から離れた場所に立っていたヘルミオとフィーネの姿を見つけると、両手に杯をもってやってきた。
「ヘルミオ様、どうぞ。フィーネさんは、果実水をいかがですか」
「ありがとうございます」
フィーネは杯を受け取ると、祭壇に向かって一礼してから皆と同じように一気に飲み干した。クララは祭壇の方を見ながら、ヘルミオに申し訳なさそうに言った。
「これからパンやキノコも皆で分け合うので、しばらくここを離れられません。お二人は、いかがなさいますか」
「では、わたしたちは、そろそろ戻りましょうか」
ヘルミオはフィーネに顔を向けた。フィーネもそれにうなずいた。
村長の家の前まで歩いて来たところで、ヘルミオが立ち止まった。
「ところで、フィーネ。さきほど皆が言っていた、あの言葉の意味はわかったのですか」
「はい」
フィーネが答えると、セレナが勢いよくフィーネの顔を覗き込んだ。
「えっ、あのエルテスタなんとかっていう、あれのこと? あれがわかるの?」
「はい。『みな、無事に帰ってこい』という意味です」
セレナは言葉を失ったように、目を見開いたままフィーネを見つめた。
「なるほど。そういう意味でしたか。あの言葉は、オヤリ様がよく村人におっしゃっていた言葉なのだそうですよ。どんな意味かはわからなかったけれど、何度も村人にそうおっしゃるので、きっと大事な言葉に違いないと当時の人々は考えて、この儀式で使うことになったらしいですからね」
ヘルミオは静かにうなずくと、広場を振り返って祭壇のある方を見た。フィーネもつられるように、その視線の先を追った。広場には松明の火が揺れ、村人たちがパンやキノコを分け合っている。
「では、また明日、朝食でお会いしましょう」
ヘルミオはフィルと一緒に、離れへ向かった。セレナはしばらく呆然とフィーネを見つめていたが、ヘルミオたちが離れへ向かうのを見て、はっと我に返った。
「じゃあ、私たちも村長の家に戻りましょう」
「はい」
フィーネはもう一度、広場を振り返った。人々の笑い声やざわめきが、夜の広場に穏やかに広がっている。
――みな、無事に帰ってこい。
フィーネは、先ほどの言葉を心の中でもう一度繰り返してから、セレナとともに村長の家へ戻った。




