旅立ちの日
朝。文はいつもより早く目を覚ました。今日はいよいよ旅立ちの日だ。文は丁寧に着ていた寝間着をたたむと、エルカディアのお針子に頼んでおいた、外を歩くための服に着替えた。袖を通してみるととても快適で、お針子が着心地と歩きやすさを考えたと言っていたのを思い出した。
ゴローに声をかけようと机を見ると、姿がない。たぶんエルカディアのところにでも行っているのだろう。文は部屋の中を見回した。初めてここで目覚めた時のこと、風邪をひいたときのこと、ゴローと話ができてうれしくて夜中まで眠れなかったこと、いろいろなことが次々と思い浮かんだ。
荷物はエルカディアにもらった鞄にすべて収納できたので、部屋はすっきりしている。文は身支度を整えると、食事部屋へ向かった。
「おはようございます」
文が挨拶しながら食事部屋の扉を開けると、エルカディア、調理人、調理人の妻、リュエルがいることに気づいた。
「おはようございます」
リュエルが文の前に、グラスを持ってやってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
朝は温かい茶を飲むのが定番だが、今日は違っていた。
「カルドが今日の為にと持ってきてくれました」
顔を上げると、エルカディアが微笑んでいた。
「うれしいです。ありがとうございます」
「文様のお好きな、ミナの実のお茶を混ぜました」
リュエルはそう言って、盆からグラスをテーブルに置いた。
文はグラスを手に取ると、ゆっくりと一口飲んだ。甘味と酸味のある、文の大好きなミナの実のお茶の風味。そして炭酸の刺激が、喉から体の中へ広がっていく。
「ああ、おいしい」
文は無意識に息を吐きながら目を閉じた。
「さあ、スープとパンをどうぞ」
今度は調理人が温かなスープと焼きたてのパンをテーブルに置いた。
「文様が一番お好きだとおっしゃっていた味付けと、柔らかめに焼いたパンです」
文は自分好みに味付けされた朝食を存分に味わうことができた。
朝食を終えて部屋に戻ると、髪をととのえ、姿見の前に立った。もう、見慣れない自分の姿ではない。文は大きく深呼吸を一つすると、鞄を持ってエルカディアの執務室に向かった。ヘルミオをはじめとする商隊の者たちとそこで出発前の話をすることになっているからだ。
エルカディアの執務室の扉を叩く。
「どうぞ」
「失礼します」
文が扉を開けると、すでにヘルミオと護衛騎士、それから見慣れない若者が一人と、部屋の隅に旅支度をすませた人化したゴローがいた。
「お待たせして、すみません」
ヘルミオの隣に座っていた若者が慌てたように立ち上がった。
「文様、こちらはリオネルと申します。我が商会の見習いで今回の旅に同行させていただきます」
ヘルミオが紹介すると、リオネルは文に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
文は短く挨拶すると、エルカディアの隣に座った。
「さて、まずは無事に今日を迎えられたことをとてもうれしく思う。ヘルミオ、準備に苦労を掛けたな」
「いいえ、エルカディア様。私も、文様と旅ができることを大変光栄に存じます」
ヘルミオは文を見ながら言った。エルカディアが静かに頷く。
「うむ。旅の面々がそろったところで、先日私がしたあの通達について確認しておきたい」
「はい。我々は今、この瞬間から文様をフィーネ様とお呼びします。ただし、旅の途中は、商隊の仲間として振る舞いますので、『フィーネ』とお呼びします」
ヘルミオはまるで宣言するように言った。
「わかりました。わたしはみなさんをお呼びする時はどうしたらいいのでしょうか」
「そうですね。私のことは、商会長でも、ヘルミオ様でも、お好きにどうぞ。私は今回のまとめ役なので、あなたの上の立場ということになっています。それから、護衛の者たちは、全員あなたより年長なので、『さん』付けでよろしいかと。リオネルのことは、気軽にリオと呼んでください」
「はい。そうします」
文はうなずくと、心の中でそれぞれの名前を呼んでみた。
「荷物のほうはどうなっていますか」
エルカディアがヘルミオに問いかける。
「お屋敷から預かった荷物は積み終わっています。あとはフィーネ様、いえ、フィーネの荷物だけですが、もしかして、その鞄だけですか」
「はい。これで全部です」
「なるほど。わかりました。では、これで出発の準備は整いました」
ヘルミオがそう言うと、護衛たちは先に立ち上がって部屋を出て行った。
「馬車の準備がありますので、フィーネはここで少し待っていてください」
ヘルミオは部屋の隅にいるゴローを振り返った。
「今日はそのまま行くのですか」
「そのつもりだけど」
「わかりました。みんなに伝えておきます」
ゴローがヘルミオの隣に座った。文はゴローの存在をヘルミオも護衛たちも普通に受け入れていることに驚いた。
「あの、ゴローのことは、特に問題ないのでしょうか」
「ええ、もちろんです。エルカディア様から伺いました。彼は精霊なのですよね。姿が変えられることに疑問は感じません。あなたのような方には、精霊の加護がついて当然です。他の皆には、ゴローはエルカディア様が遣わしたフィーネの従者だと言ってあります。しかし、精霊であることは伝えていません」
「ヘルミオさんはわたしのことをどのくらいご存知なのでしょうか」
「詳しいことは存じ上げませんが、あなたが特殊な生まれ方をしたということは存じております」
「そうですか。安心しました」
文が小さく息を吐いたところで、扉がノックされた。馬車の準備ができたようだ。
「さて、私の敬語もここまでです。さあ、行きましょうか、フィーネ」
「はい」
文は鞄を持って立ち上がった。
屋敷の玄関を出ると、馬車が二台用意されていた。調理人、リュエル、調理人の妻、マルエナとその夫のドラン、カルドの姿も見えた。文はひとりひとりと握手を交わし、別れの挨拶をした。カルドが大きな袋を馬車の荷台に乗せた。
「みなさん、お世話になりました。森の近くの村々を巡ってきます。一か月ほどで戻る予定ですので、意外とすぐに帰ってくるかもしれませんが、その時までお元気で」
文は笑顔でそう言うと、最後にエルカディアの前に立った。
「エルカディアさん、今まで本当にありがとうございました。少し、外の様子を見てきます」
「フィーネ、元気に、安全で」
エルカディアはうなずくと、そっと手を差し出した。文はそのしわのある手を握った。
「フィーネ、こちらの馬車に乗って」
セレナが一台目の馬車を指さした。
「はい」
文は、エルカディアにもう一度頭を下げると、馬車に乗り込む。
「フィーネ、こちらへ」
ヘルミオが御者席の隣を軽く叩いた。
「お元気で、文様」
「お気をつけて」
見送りに来た者たちがそれぞれに文に声をかける。
「みなさん、ありがとうございます。行ってきます」
文はみんなに向かって手を振った。
ヘルミオが馬に鞭を入れる。馬車がゆっくりと動き出した。少し進んでもまだみんなの声が聞こえる。文は振り返ると、もう一度手を振った。
しばらくすると馬車が村の入り口の門に着いた。門番の男にも挨拶をする。文がふと荷台を振り返ると、ゴローが座っていた。
「さあ、フィーネ、新しいものを見に行きましょう」
ヘルミオは手綱を握りなおすと、文に声をかけた。
「はい」
森の木々は文の旅を歓迎するかのように、優しく葉音を響かせた。
第一章は、今回のお話で終わりとなります。
ここまで文の村での暮らしを見守ってくださり、本当にありがとうございました。
次回からは第二章、旅編が始まります。第二章からは隔日更新とさせていただこうかと思っています。
これからもフィーネたちの旅を、ゆっくり見守っていただけたらうれしいです。




