ざわめきの向こう
命の樹の儀式から数週間。
エルカディアの屋敷は、にわかに慌ただしくなっていた。
村々からも、王都からも、毎日のように使者が訪れる。エルカディアはその応対に追われていた。
調理人の話では、それぞれの土地で異変が起きているらしかった。
水が増えすぎた場所。実りが極端に偏った土地。これまでなかった争いの火種まで生まれ始めているという。
文は相変わらず、畑や水の様子を見て、水守のカルドの小屋に顔を出しながら日々を過ごしていた。ゴローと話せるようになってからは、失っていた記憶の断片も、ときおり頭の奥に浮かぶようになっている。
そんなある夜。
文はエルカディアの私室へ呼ばれた。
「遅い時間に申し訳ありません」
「いいえ。最近、特にお忙しそうですね」
「ええ。あの儀式のあといろいろな場所で問題が起こっているようで」
「そうですか。でも、あの儀式は『よどみ』を浄化するんですよね」
「そうではあるのですが、数百年ぶりに浄化は大きな変化をもたらしたようなのです」
「大きな変化……ですか」
「はい。長くよどんでいたものが一度に流れれば、水も土地も均衡を失いかねません」
ここまで言うと、エルカディアは文の目をまっすぐに見た。
「実は文様に、一つお願いがあります」
「なんでしょうか」
「文様は今までこの村のことを見てこられました。そろそろ外へ出てもいい頃かもしれません。村の外を見てみませんか。そして、その目で他の村々で起きていることも見てきてほしいのです」
文は一瞬言葉を失った。
外へ出る。
確かに文はこのエルカディアの森にある村のことしか知らない。
エルカディアはそのまま話を続ける。
「一つ手立てを考えてあります」
「王都にあるヘルミオ商会の商隊の一員として、村々を回ってこられるのはどうかと」
「もちろん護衛もいますから、文様に危険が及ぶことはほとんどありません。いかがでしょう。まずはこの村の近隣からというのは」
「そうですね。とても興味はあります。でも、すぐには…」
「ええ、数日中に答えをいただければ問題ありません。ただ、私は外へ出てみることをおすすめしたいと思っています」
「わかりました」
文自身も、自分の環境を変えなくてはいけない時期が来たのかもしれないと思い始めていた。
村での暮らしにも慣れてきて、以前では見えなかったことや、知りたいと思うことも増えてきた。なにより、自分がなぜここにいるのか、そもそも自分は何者なのか。
断片的な記憶と、祖母の記憶。そして、ぬいぐるみだったはずのゴローの存在。
文は自室に戻ると、そのままベッドに倒れこんだ。すっかり見慣れた天井は今夜も美しいカーブを描いている。
「ねえ、ゴローちゃん」
文は机の上の存在に話しかけた。
「村の外ってどんな感じなのかな。エルカディアさんがそろそろ外に出てみないかって」
「あるじが行ってみたいと思うなら、それでいいと思うよ」
ゴローは座ったまま静かに答える。
「そうだね。ここでの毎日は楽しいし、勉強にもなるけどちょっと狭いよね。窮屈ではないけど、もっと新しいことを知りたいなとも思うんだ」
「あるじがそう思ったってことは、ネイア様も望まれていることなんだと思う」
「ネイア様か……」
文は体を起こすと、窓辺に肘をついて命の樹のある方向へ目を向けた。
「もう少し考えてみようかな」
ふと気が付くと、ゴローが膝の上に乗ってきた。文は頭をなでると、その柔らかさに心がほどけていく感覚を覚えた。
文は暗い森のざわめきに耳を澄ませた。その向こうにある世界を、ぼんやりと思い浮かべながら。




