失われた一語
夕食は、いつもと変わらなかった。
湯気の立つ椀。器の触れ合う音。昼に見つけた書は、エルカディアの私室の机に置かれていた。食後、エルカディアが席を立った。
「こちらへ」
私室の灯りはやわらかく、机の中央に古書が置かれていた。
椅子に腰を下ろす前に、文は口を開いた。
「……ひとつ、よろしいですか」
エルカディアが目を向けた。
「今日、書庫で『ミオ』と呼ばれていた子に会いました」
少し驚いたように、エルカディアは一瞬動きを止めた。
「孫です。離れで過ごしているのですが、今は王都から来ていて、じきに帰ることになっています。シオンという名の、ミオの兄もおります。どこかでお会いすることがあるかもしれません」
「そうでしたか。エルカディアさんにお孫さんがいるとは知りませんでした」
「確かにお話ししたことはありませんね」
「同じ屋敷にいても、会わない人もいるのですね」
「ええ。彼らのいる離れは、普段あなたの動線にはないのです。驚くのも無理はありませんね」
文は屋敷のことを、すべて知っているわけではない。そういうものなのだろうと思った。
エルカディアは机の上の本を広げた。
「昼間、あなたに探してきていただいた本です。読めたとおっしゃっていましたね」
「はい。最初の数行を見ただけです。意味がわからない言葉はたくさんありましたが、読むことはできました」
自分でも奇妙だった。知らないはずの言葉が、形を持つ。
エルカディアはうなずくと、本の中のとある頁を開いた。
「この頁を最初から声に出して、読んでいただけますか」
文は本を受け取って、そこにある文字を目で追った。
「……樹の前にて、流れを整え」
「……巡りを保ち」
息を継ぐ。
「澄みたるままに、清きものを巡らせよ」
そこまで読んで、文は顔を上げた。エルカディアは目を伏せている。
「……読めているでしょうか」
「ええ。問題ありません。今の祈りに欠けているものがわかりました」
「どの言葉ですか」
「最後の方をもう一度読んでいただけますか」
「澄みたるままに、清きものを巡らせよ」
「ああ、それです。『澄みたるままに』そこが抜けています」
文は頁を見下ろした。
「儀式は十年に一度、命の樹を守る者が代々執り行ってきたものです。この土地の流れを整えるための、大切な祈りでもあります。代を重ねるうちに、祝詞は口伝で受け継がれるようになりました。私も先代から、そう教わっています」
「戦の時代には儀式そのものが行えなかった年もあったようです。そうして長い年月が流れるうち、この本に記された文字を読める者はいなくなってしまいました」
エルカディアは淡々と説明を続けた。
「それでも儀式の形は守られてきました。しかし、祝詞の一部が欠けたまま受け継がれていたのでしょう。長く感じていた違和感の理由が、ようやく分かりました。文様のおかげです」
「ですが、わたしには、読むことしかできません」
「それでいいのです。ありがとうございます」
ためらいのない言葉だった。エルカディアは文をまっすぐに見つめながら言った。
「明日、儀式があります。立ち会っていただけますか」
「はい。でも、わたしが参加していいものなのですか」
「ええ。見るだけで構いません。あなたには見ていただきたいのです」
文はうなずいた。
長い年月や戦の時代、そして代々受け継がれてきた祈り。そんな話を聞いているうちに、少し前から頭にあった疑問が口をついた。
「エルカディアさん……わたしは、どれくらい眠っていたのですか」
「百年です」
百年。
人の一生を越える時間。
「百年ですか。そんなに長く……」
「いいえ、我々にとってはそれほど長い年月ではありませんよ。しかし、あなたは『なぜ百年も』とお思いでしょう。それはいずれお話ししましょう」
エルカディアはそう言うと、文に部屋に戻るよう言った。
気が付くと文の足元に、影があった。丸く、小さい。いつからそこにいたのか分からない。
――ゴローちゃん?
影が、わずかに動いた。文は立ち上がると、エルカディアに挨拶して私室を出た。
部屋に戻ると扉を閉め、灯りを落とす。ベッドに横になって目を閉じてはみたが、なかなか眠れそうもなかった。
百年。
その数字が、消えない。
「……ゴローちゃん、いる?」
暗がりに、声を落とした。
「いるよ」
短い返事。
「百年って、どういうことなの」
「いつかわかることだよ。いろいろ事情が混みいってるんだ。僕の口からは言えない。でも、安心して。あるじは、あるじだよ。」
低い声が返ってきた。
百年という言葉は重いまま。だが、揺らがないものもある。
もっと自分のことが知りたい。またエルカディアに聞いてみようか。文はベッドの中でしばらく考えた。




