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旅の理由は、あとで 〜百年かけて生まれたエルフ〜  作者: こなれたタオル
第1章 始まりの森

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失われた一語

 夕食は、いつもと変わらなかった。

湯気の立つ椀。器の触れ合う音。昼に見つけた書は、エルカディアの私室の机に置かれていた。食後、エルカディアが席を立った。


「こちらへ」


私室の灯りはやわらかく、机の中央に古書が置かれていた。

椅子に腰を下ろす前に、文は口を開いた。


「……ひとつ、よろしいですか」


 エルカディアが目を向けた。


「今日、書庫で『ミオ』と呼ばれていた子に会いました」


少し驚いたように、エルカディアは一瞬動きを止めた。


「孫です。離れで過ごしているのですが、今は王都から来ていて、じきに帰ることになっています。シオンという名の、ミオの兄もおります。どこかでお会いすることがあるかもしれません」


「そうでしたか。エルカディアさんにお孫さんがいるとは知りませんでした」


「確かにお話ししたことはありませんね」


「同じ屋敷にいても、会わない人もいるのですね」


「ええ。彼らのいる離れは、普段あなたの動線にはないのです。驚くのも無理はありませんね」


文は屋敷のことを、すべて知っているわけではない。そういうものなのだろうと思った。


エルカディアは机の上の本を広げた。


「昼間、あなたに探してきていただいた本です。読めたとおっしゃっていましたね」


「はい。最初の数行を見ただけです。意味がわからない言葉はたくさんありましたが、読むことはできました」


自分でも奇妙だった。知らないはずの言葉が、形を持つ。


エルカディアはうなずくと、本の中のとある頁を開いた。


「この頁を最初から声に出して、読んでいただけますか」


文は本を受け取って、そこにある文字を目で追った。


「……樹の前にて、流れを整え」


「……巡りを保ち」


息を継ぐ。


「澄みたるままに、清きものを巡らせよ」


そこまで読んで、文は顔を上げた。エルカディアは目を伏せている。


「……読めているでしょうか」


「ええ。問題ありません。今の祈りに欠けているものがわかりました」


「どの言葉ですか」


「最後の方をもう一度読んでいただけますか」


「澄みたるままに、清きものを巡らせよ」


「ああ、それです。『澄みたるままに』そこが抜けています」


文は頁を見下ろした。


「儀式は十年に一度、命の樹を守る者が代々執り行ってきたものです。この土地の流れを整えるための、大切な祈りでもあります。代を重ねるうちに、祝詞は口伝で受け継がれるようになりました。私も先代から、そう教わっています」


「戦の時代には儀式そのものが行えなかった年もあったようです。そうして長い年月が流れるうち、この本に記された文字を読める者はいなくなってしまいました」


エルカディアは淡々と説明を続けた。


「それでも儀式の形は守られてきました。しかし、祝詞の一部が欠けたまま受け継がれていたのでしょう。長く感じていた違和感の理由が、ようやく分かりました。文様のおかげです」


「ですが、わたしには、読むことしかできません」


「それでいいのです。ありがとうございます」


ためらいのない言葉だった。エルカディアは文をまっすぐに見つめながら言った。


「明日、儀式があります。立ち会っていただけますか」


「はい。でも、わたしが参加していいものなのですか」


「ええ。見るだけで構いません。あなたには見ていただきたいのです」


文はうなずいた。

長い年月や戦の時代、そして代々受け継がれてきた祈り。そんな話を聞いているうちに、少し前から頭にあった疑問が口をついた。


「エルカディアさん……わたしは、どれくらい眠っていたのですか」


「百年です」


 百年。


 人の一生を越える時間。


「百年ですか。そんなに長く……」


「いいえ、我々にとってはそれほど長い年月ではありませんよ。しかし、あなたは『なぜ百年も』とお思いでしょう。それはいずれお話ししましょう」


エルカディアはそう言うと、文に部屋に戻るよう言った。

気が付くと文の足元に、影があった。丸く、小さい。いつからそこにいたのか分からない。


――ゴローちゃん?


影が、わずかに動いた。文は立ち上がると、エルカディアに挨拶して私室を出た。


 部屋に戻ると扉を閉め、灯りを落とす。ベッドに横になって目を閉じてはみたが、なかなか眠れそうもなかった。


百年。


その数字が、消えない。


「……ゴローちゃん、いる?」


暗がりに、声を落とした。


「いるよ」


短い返事。


「百年って、どういうことなの」


「いつかわかることだよ。いろいろ事情が混みいってるんだ。僕の口からは言えない。でも、安心して。あるじは、あるじだよ。」


低い声が返ってきた。


百年という言葉は重いまま。だが、揺らがないものもある。

もっと自分のことが知りたい。またエルカディアに聞いてみようか。文はベッドの中でしばらく考えた。

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