静かな村を歩く
翌朝、文は軽く体を起こすことができた。一昨日とは違い、徐々に体は素直に応えてくれるように思えた。着替えて、長椅子に座っていると扉がノックされた。屋敷の使用人だろうか。見たことのない女が朝食の準備ができたと教えてくれた。食堂に入って、中を見回してみたがエルカディアの姿は見えなかった。
朝食を終え、そのまま部屋に戻った。特に何をするでもなく、ただ椅子に座って窓の外を眺めていると不思議な感覚に陥った。森のざわめきはあるのに、騒がしさはない。
風の音すら、遠慮がちだ。
――時間が、違う。
そう感じた。
急かされる気配が、どこにもない。ただ、何がどう違うのか。自分は一体どこの何と比べているのだろう。文は考え込んでしまった。
しばらくして、足音がゆっくり近づいてきた。
「文様」
扉の外から、エルカディアの声。
「外を、一緒に歩いてみませんか」
「……はい」
文は立ち上がった。
建物の外に出ると、空気がはっきりと変わった。森の匂い。湿った土。葉の擦れる音。文にとって、屋敷と屋敷の窓から見える以外の景色は初めてで、どこを見ても珍しく、美しく感じた。
石畳の道は滑らかで、長い時間をかけて踏み固められたものだと分かる。
装飾は少ないが、どこも手入れが行き届いていた。
「あの、エルカディアさん……」
言いかけて、文は一瞬、言葉を止めた。
「……いえ、長老様」
自分で言い直してから、少し間を置く。
「わたしに、『様』はいらないです」
エルカディアは、すぐには答えなかった。歩調を変えず、数歩分の沈黙が流れる。
「私に対する呼び方は、あなたが決めてかまいません」
「長老と呼ぶか、名で呼ぶか。その選択は、あなたに委ねます」
「ただ――」
「あなたに『様』を付けない、という形は取れません」
文は、わずかに眉を寄せる。
「……どうしてですか」
「あなたを下に置いているわけではありません」
エルカディアは前を向いたまま、続けた。
「この地では、名の呼び方は立場ではなく、役割に基づくものなのです」
「それはつまり、わたしが女神の孫だからでしょうか」
「もちろんそれも理由の一つです。ただ、他にも理由はあるのです。まだあなたにお話しはできませんが」
「そうですか」
文は、黙って歩きながら、その言葉を受け入れることにした。
理解できないというより、
理解するには、もっと時間が必要なのだと感じた。
「ここに住んでいる方たちは……」
文は話題を変えるように尋ねた。
「多くは、森と共に暮らしています。畑を持つ者、薬草を育てる者、木工や織物を生業とする者もいます。それぞれが、できることをしています」
何人かとすれ違う。視線が向けられ、軽く会釈された。
好奇の色は、ほとんどない。
「……見られてないですね」
「ええ。必要以上に、他者を覗かない文化ですから」
文にはそれが、なぜだか羨ましく思えた。
歩いているうちに、小さな広場に出た。
中央には水盤があり、澄んだ水が静かに湛えられている。
子どもが二人、水面を覗き込んで何かを話していた。
文に気づくと、一瞬だけこちらを見て、すぐに興味を失ったように戻る。
「……わたし、浮いていませんね」
「浮く理由がありません」
エルカディアは当然のように言った。
「……祖母は」
文は足を止めた。
「どこにいるのでしょう。元気なのでしょうか」
エルカディアは、はっきりとうなずく。
「お元気だと思います。ネイア様は人間の神ですから、人間の国の神殿での祈りが届く場所にいらっしゃるでしょう。私も、詳しくは存じ上げませんが」
「そうですか。あの、女神という立場は……大変なのではないですか」
エルカディアは答える。
「楽な役目ではありません。多くを経験され、いろいろな思いを持たれたことでしょう。それでも、ネイア様はこの地で立つことを選ばれたのです」
水面が揺れ、光が砕ける。
エルカディアは、静かに続けた。
「あなたは、ここに来たのではなく、帰ってきた存在なのです」
文は眉を寄せた。
「帰ってきた……?」
「そのようなお導きがあったということです。すぐに理解する必要はありません」
広場を抜け、再び石畳の道へ戻る。遠くで、木の葉が揺れた。屋敷からは見えた命の樹も、この平地からは森に遮られている。しかし、この国の空気の中に、確かにその存在が溶け込んでいる。
――なぜ、自分がここにいるのか
祖母との繋がりが、自分とこの世界の繋がりなのかもしれない。
それだけでも、少しだけ心が軽くなる気がした。
昼の時間は、静かに過ぎていった。午後になり、文はもう一度、外に出てみようと思った。今度は、一人で。自分の足で確かめてみたくなったのだ。
立ち上がると、身体に不調はなかった。むしろ、朝よりも軽いくらいだ。
ほっと安心しつつ、扉に手を伸ばした、そのとき。
――動かない。
鍵がかかっているわけではない。
力を入れていないわけでもない。
足が前に出なかった。
「……?」
違和感はあるのに、不安はなかった。
むしろ、どこか……。
守られている。
そんな感覚。
床の空気が、わずかに揺れた気がした。
見えない膜のようなものが、部屋を包んでいる。
「……今日はもう、やめといたほうがいいのかな」
誰にともなく呟く。
返事はない。
だがその沈黙は、冷たくなかった。
文は小さく息をつき、扉から手を離した。
理由は、分からない。
ただ――
この世界には、
自分よりも先に、心配してくれる何かがいる。
そんな予感だけが、残った。




