いたいと思えた場所
――なんだか、いい気分だな
文が目を覚ますと、昨日と同じ天井が、そこにあった。
――夢、じゃなかったんだ。
体を起こしてみようと、腕を伸ばすと昨日と同じ寝具の感触があった。
喉が乾いた。
お腹も空いている。
その事実に、文はほっとした。
大丈夫だな。うん、大丈夫……。
昨日までの出来事。
エルフの国、女神になった祖母。
どれも信じがたい話だった。
そもそも自分は一体いつからこの国にいるのだろう。
というより、祖母といたはずの世界のわたしはどうなったのだろう。
いや、ダメだ。それを考え始めたら、前に進めない気がする。
全部を理解するのは、まだ無理だ。目の前のものから確かめなければ。
文は周囲を観察することにした。
ベッドの脇に、衣服が置かれていた。
淡い緑色の、簡素な服。触ると柔らかく、軽い。
これ、わたしの……だよね。
問いかける相手はいない。
ただ、布の感触だけが、確かなものとして指先にあった。
そういえば、今は何を着ているんだろう。文は自分の腕や腹のあたりをまじまじと見た。寝間着なのだろう。柔らかな生成り色の布で作られていて、袖もゆったりとしている。ただ、不思議なくらい肌触りがよかった。
文はその寝間着を脱いで、傍らにある服を着てみることにした。
恐る恐る袖を通してみると、布はすんなりと腕を包み、違和感なく落ち着いた。
サイズも、ぴったりだった。
――ぴったり、すぎない?
文はふと、部屋の隅に置かれた姿見に気づいた。しばらく迷ってから、そっと近づいてみることにした。うまく歩けるだろうか。なにしろ、昨日は体を起こすこともままならなかったのだ。文は躊躇しつつもベッドから立ち上がってみる。そして、一歩踏み出した。
拍子抜けするくらい、文は普通に歩けた。鏡の前にたどり着くと、そこに映っていたのは、見覚えのない誰かだった。
淡い金色の髪が、肩から背にかけて柔らかく流れている。
肌は明るく、整った顔立ちはどこか現実感が薄い。
「……誰」
思わず、声が漏れた。
そして、視線が目に向いた瞬間、息をのむ。
瞳が、金色だった。
光を宿したような、澄んだ金。
宝石めいたその色に、しばらく瞬きすら忘れる。
――こんなの、見たことない。
綺麗だ、と。
そう思ってしまったことに、自分で戸惑う。
視線がもう一度、輪郭をなぞる。
その途中で、ふと、引っかかるものがあった。
――耳。
髪の隙間から覗いているそれは、見慣れた形よりも、少し長い。
先が、なだらかに尖っている。そっと触れてみた。
……エルフ?
昨日の記憶が、遅れて浮かんだ。長老エルカディアの横顔。
銀の髪と、同じ形の耳。
そういえば、と文は思う。
あのときから、頭のどこかで分かっていたのかもしれない。
――ほんとに、エルフなんだ。
そんな実感が、ようやく追いつく。
しばらく自分の姿を鏡で眺めていると、ノックの音がした。
「起きていらっしゃいますか」
続いて、扉が静かに開く。
昨日と同じ銀髪のエルフ、エルカディアが穏やかな表情で立っていた。
「おはようございます、文様。お体の具合はいかがでしょう」
「あ……はい。大丈夫、です。その……」
文は言葉を探しながら、そっと自分の頬に触れた。
「……これ、わたし、ですよね?」
エルカディアは、文に視線を向ける。
一瞬。
ほんのわずかに、間が空いた。文は我ながらなんて間抜けな質問をしてしまったのだろうかと、後悔した。
「ええ。間違いありません」
文のおかしな質問にエルカディアは丁寧に答えた。
「この瞳の色は……?」
「この国でも、滅多に見られません。ネイア様から受け継がれたものでしょう」
文は、思わず鏡にもう一度目を向けた。
「祖母もこのような瞳なのでしょうか」
「ええ。我々の世界には、エルフのほかに人間や獣人族、ドワーフ族などがおりますが、金の瞳をお持ちなのはネイア様とあなた様だけでしょう」
文はまじまじと鏡の中の自分の顔を見た。
綺麗すぎる。
自分の顔なのに、落ち着かない。
「……ちょっと、綺麗すぎませんか?」
「ええ」
エルカディアは、否定しなかった。
「ですから、しばらくは私の目の届く範囲でお過ごしください」
その言葉に、文は小さくうなずく。
「……はい」
エルカディアは、安堵したように微笑んだ。
「朝食をご用意しています。よろしければ、ご一緒に」
案内された先は、私的な居室に隣接した、小さな食事部屋だった。
木のテーブルと椅子。窓の向こうには、森が広がっている。
その奥に巨大な樹が見えた。
朝の光を受けて、淡く輝いている。
文は、しばらく言葉を失った。
圧倒されるほど大きいのに、不思議と怖くはない。
見下ろされているとも、見守られているとも違う。
――近づけない……。
理由は分からない。ただ、そう感じた。
触れてはいけないのではなく、今は行くべき場所ではない。
そういう線が、自然に引かれている気がした。
文が席に着くと、湯気の立つ椀が静かに前へ置かれた。
エルカディアが穏やかに言う。
「お口に合うかどうか分かりませんが」
文は椀を手に取った。
「ありがとうございます」
そう言いつつも、文はスプーンを手にしたまま椀の中の液体をじっと見ていた。
エルカディアはそんな文の様子に気が付いた。
「心配することはありません。確かにあなたは眠っておられましたが、食事をとることに問題はありません。今のあなたの体の状態に合わせたものですから、ぜひ、お召し上がりください」
「はい」
文は頷くとスプーンで椀の中の液体をくるりとまぜてからそっとすくい、口に運んだ。
熱すぎない。
やわらかな塩気が、すっと喉を通る。
――あ。
温かさが、ゆっくりと腹の奥へ落ちていく。
そこで初めて、自分が強く肩に力を入れていたのだと気づいた。
もう一口。
今度は、味が分かる。なんて優しい味なのだろう。
隣に置かれたパンをちぎる。
軽く焼けた香ばしさがふわりと広がった。
しばらくはそのパンの香りを楽しんでいた。
だが、半分も食べないうちに、急に体が重くなった。
眠い、というより力が抜けていくようだった。
エルカディアは黙ってその様子を見ていた。
しばらくして、文に声をかける。
「お疲れのようです。部屋に戻られますか」
「はい。……ごちそうさまでした」
どのくらい眠っていたのかはわからないが、急に食べたので、体が追い付いていないのかもしれない。文は残っていたスープを飲み干した。器を静かに置いて、椅子から立ち上がった。
自室に戻ると、もう一度、姿見の前に立った。金色の瞳が、こちらを見返していた。
「……ほんとに」
小さく呟く。
朝と同じ姿だ。
分かっているはずなのに、慣れない。
鏡から離れ、ベッドに腰を下ろした。
まぶたが重い。
少しだけ横になる。そのつもりだった。だが次の瞬間には、意識が途切れていた。
目を覚ますと、窓から差し込む光の角度が変わっていた。
ずいぶん、時間が経っている。思っていたより、ずいぶん長く眠ってしまったようだ。
体を起こしてみると、午前中のあの重さはもうなかった。
不思議なくらい、落ち着いている。
小さな丸テーブルに、ポットと器が置かれていた。
誰が置いたのかは、考えなくても分かる。
そっと注いでみると、まだ、ほんのり温かかった。
一口飲む。
「おいしい」
お茶の一口飲むごとに、頭の中がすっきりしていくのを感じた。
ベッドに腰を下ろして、午前中のエルカディアとのやり取りを思い出した。
何から考えればいいのか分からない。
頭の中が、まとまらない。
とにかく、よく分からない。
――今は、無理だ。
小さく息を吐く。そこへノックの音がした。
「お目覚めでしょうか」
エルカディアの声だった。
「はい」
扉が開く。
「夕食のご用意ができています。よろしければ、いらっしゃいませんか」
文は、少し迷ってからうなずいた。
食事部屋の灯りは、朝よりも落ち着いている。
窓の外を見ると、森はすでに薄暗い。
文はエルカディアに促されるように席に着いた。
温かいスープとパンが用意される。
文はためらいなく手をのばした。朝食で食べたパンよりも、さらに柔らかさが増していて、手に取っただけで、癒される気がした。
ゆっくりと時間をかけて食べてみる。
今度は、途中で疲れを感じることなくきちんと食べることができた。
しばらく静かな時間が流れる。
文はスープを飲み終えると、顔を上げた。
エルカディアと視線が合う。
考えをまとめてからうまく言おうと思っていたが、未だ自分の状況に混乱している文には、思っていることを言葉にするのさえ難しく感じた。
「正直に言うと……頭が追いついていなくて。何を考えるべきかも、よく分かりません」
エルカディアは、黙って聞いている。
「考えたほうがいいのだと思います。でも……今は、考えられなくて。記憶も曖昧ですし」
少しの沈黙。
「ただ、ここにいたいと……そう思いました」
「……しばらく、いさせてください。お願いします」
それは決意というより、確認に近かった。
エルカディアは、うなずく。
「ええ。それでよいのです」
その言葉は、思っていたよりも軽く、だが確かだった。
文は、湯気の立つ器を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。




