ここで終わらない
夕食を終え、屋敷の中が落ち着き始めた頃だった。
廊下の灯りは優しく、足音も少ない。文は夜の時間を自分の部屋で過ごしていたが、扉の外から近づく気配に気づいて顔を上げた。
「文様」
エルカディアの声だった。
「少し、よろしいですか」
文は立ち上がった。
「はい」
「私室で話したいことがあります」
それだけ告げて、エルカディアは先に歩き出した。
文は手元の灯りを落とすと、扉を閉めてあとに続いた。
私室は廊下の奥にある。文も、エルカディアに呼ばれたとき以外は入ったことはない。扉を開けると外よりも一段、音が聞こえなくなる。静かだけれど、静かすぎない不思議な雰囲気のある部屋だ。
テーブルの上には小さな灯りがひとつ。
湯気の立つ茶の器が二つ用意されていた。
「どうぞ」
促され、文は腰を下ろした。
エルカディアも向かいに座り、器に手を伸ばしかけていったん止めた。
少しの間を置いてから話し始めた。
「村での暮らしには、もう慣れましたか」
「はい。皆さんに、よくしていただいています」
エルカディアは、すぐには言葉を返さなかった。文の顔を見てから、ゆっくりと器に手を伸ばす。ひと口飲み、それから小さく息を吐いた。
「それを聞けて、何よりです」
声は穏やかだった。だが、その奥にひとつ区切りがついたような、例えるなら温度の変化のようなものを文は感じた。
「……何か、ありましたか」
エルカディアはテーブルに視線を落としたまま、しばらく言葉を選んでいた。
やがて静かに口を開く。
「あなたのことは、以前も申し上げた通り、ネイア様から託されました」
その名を聞いた瞬間、文の呼吸がわずかに止まった。
ネイア。
女神の名だと、分かっている。そして祖母のことであることも。
だからこそ、その名を聞けば胸に浮かぶのは、あの頃の感触だ。
柔らかい声。
少し皺のある手。
名前を呼ばれた記憶。
文は視線を落としたまま、黙って聞いている。
「それは、あなたが目覚めるまでの間を見守ること。
そして目覚めた後は、この村で身の回りのことを覚え、人と関わり、自分の意志で立ち上がれるよう導くことでした」
淡々とした言葉だった。
「……そして、それができるようになったなら」
エルカディアは、ひと呼吸置いた。
「外へ出ることも、いずれは考えるように、と」
文は、静かにうなずいた。
「……そうだと思っていました」
言葉は、驚きよりも理解に近かった。
「祖母が、いえ、ネイア様が、なにも考えずに私をここに置くとは、思えませんでした。きっとなにか考えがあるのだろうと」
この村での暮らし。守られていた時間。覚えてきたこと。
それは終着ではなく、準備だったのだ。
「……この世界の中で、わたしにどんな『役割』があるのかはまだよくわかりません。しかし、それを自ら見つけることもわたしの『役割』なのだろうと考え始めているところでした」
エルカディアはその言葉を確かめるように、文を見た。
「急がせるつもりは、ありません」
はっきりとした声だった。
「ここでの暮らしが、あなたにとって支えになっているなら、それを崩す理由はないのですから」
「ただ……その前提で、ひとつだけ」
器に手を添えたまま、言った。
「あなたに、いずれ会ってもらいたい者がいます」
「今ではありませんが」
すぐに、そう付け足した。
「その存在を知らずに過ごすのと、知ったうえで過ごすのとでは、この先の感じ方が変わるでしょう」
「……分かりました。その方はどんな方なのですか」
「心配はありません。そのときになれば、分かりますよ」
エルカディアはほほ笑んだ。
――一体誰だろう……。
文は器を手に取った。湯気が、ゆっくりと立ちのぼる。
急ぐ必要はない。だが、止まっているわけにもいかない。
文は静かに、その先へ続く道へ思いを向けていた。




