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旅の理由は、あとで 〜百年かけて生まれたエルフ〜  作者: こなれたタオル
第1章 始まりの森

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噂の芽

 朝の空気は、軽かった。

雲は高く、風は穏やかで、理由もなく深呼吸したくなる。

文が外に出ると、家から出てきた女や、井戸に向かう男、籠に野菜を入れて歩く女たちとすれ違った。


「おはようございます、文様」


「おはようございます」


それだけのやり取りなのに、今日は同じ挨拶が何度も続いた。

通り過ぎるたび、あちこちから声が聞こえてくる。


「今日は、よい天気ですね」

「水は、もう汲まれましたか」

「後ほど、畑に出られますか」


「……はい」


返事をするたび、相手は笑顔を見せていく。以前なら、遠巻きに文を観察するように見ていた人たちも、今では積極的に話しかけてくるのだ。最近は、なんとなく村全体の空気が柔らかいと感じるようにもなっていた。


畑に向かう途中、文はいつもとは違う道を通ってみることにした。牛の放牧地がある山際を通る道だ。しばらく歩いていると、柵の近くで一頭の牝牛が低く鳴いていた。文は足を止めてその様子を少しの間見ていた。


「今日は、あちらの背の高い草が食べたいみたいね」


文が独り言のようにつぶやくと、近くで牛の世話をしていた男が鎌を持ったまま、顔を上げた。


「どういうことですか」


「はっきりとはわからないのですけど、あちらに生えている草が食べたいのではないかと」


文は今いる場所から五十メートルくらい離れた、小高い丘の上を指さした。

男は半信半疑ながら、丘に向かう道の柵の扉を開けた。牛はゆっくりと、まっすぐに丘に向かって歩いていく。そしてそのまま草を食べ始めた。


「なるほど。本当に行きましたね」


男は牛を見ながら、感心したように頷いた。


「最近、文様がおっしゃったことが、当たっていると村で評判なのです」


「そうなのですか。なんとなく気が付いたことなので、みなさんにご迷惑でなければいいのですが」


文はそう言うと、男に一礼して畑への道を進んだ。


 文が畑に到着すると、村人たちが作業の段取りを相談していた。


「水路を先に直すか、それとも――」


言葉が途中で止まり、文に視線が集まった。


「文様は、どちらがよろしいとお考えですか」


「……わたし、ですか?」


「はい」


文は畑を見渡した。

土の乾き具合。

水の流れ。

深く考えたわけではない。ただ、水の流れが少し弱いように感じた。水路の水に手を浸してみる。


「……こちら、でしょうか。あとで、カルドさんかエルカディアさんに来てもらったほうがいいかもしれませんね」


「いいえ、もう大丈夫です」


「え?どういうことですか」


「文様が今、直してくださいました。さっきまで弱かった流れが、ちゃんと戻っています」


文は驚きで声が出なかった。誰も異論を挟まない。文が驚いているうちに、畑作業が始まった。


文は少し離れた木の下に座った。どうやら本当に、自分は何かができているらしい。一番最初に畑に来た時も、カルドの小屋に行った時も、エルカディアに言われて、水路を流れる水に触ったことがあった。


いずれ機会があれば、エルカディアに聞いてみたい。わたしには一体なにができるのか、なにができないのか。文はそんなことを考えながら、しばらく作業の様子を見ていた。


 屋敷を出た時はとてもいい天気だったのに、いつの間にか雲が空を覆っていた。やがて、雨がぽつぽつと降り始める。


「ああ、降ってきたようだな」


誰かが言うと、一斉にみんなが空を見上げた。乾きかけた土に、雨が静かにしみ込んでいく。


「文様が、先ほど通られたからでしょうか」


冗談めいた声に、小さな笑いが起きる。


「……たまたま、ですよ」


文はつい、真顔で答えてしまった。


「ええ、ええ」


男たちは笑顔のまま作業の手を止めて、首にかけた手ぬぐいで汗をぬぐった。

雨は長くは続かなかった。

雲が流れていくと、空の端から薄い光が差し込み始める。


——わたし、いつのまにか混ざってたんだな。この村の中に。


文は胸のあたりが、軽くなった気がした。

帰り道、無意識に鼻歌を歌いながら歩いていた。


 少し前のことだ。

あの市の帰り、王都へ向かう商人たちが酒場で杯を傾けていた。


「この前の市でさ、ちょっと変わった人を見たんだ」


「変わった人って?」


「背が高くて……瞳が、金だったんだよ」


「また大げさな」


「盛ってないって。名前も知らないしさ。ただ……エルカディア様と一緒にいたんだよ」


「エルカディア様のところの村、か」


「……なるほどな」


彼らは一様に頷くと、そのまま話は止まってしまった。だが、次の瞬間にはまだ誰かがどこかの国の新しい商品の話を始めて、別の話題に移っていった。


ただ、その場にいた何人かは、その金の瞳のことを妙に覚えていた。



夕方、文は屋敷に戻った。


扉を閉めると、外の音が遠のく。いつもと同じ静けさだ。

今日一日を思い返してみる。村人との会話、牛の草のこと、水の流れを文が直したかもしれないこと。みんなが自分を受け入れてくれていると思えたこと。

文は長椅子に腰を下ろし、静かに息を吐いた。


夜、文は幸せな気持ちでベッドに入った。窓の外では、雨上がりの森が静かに揺れている。目を閉じると、昼間の村人たちの笑い声がふと思い出された。


文はまだ知らない。自分の知らない場所で、自分の話がされていることを。噂の芽がほんの少し顔を出し始めていることを。


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