日が傾くまで
前の日、散歩の途中で畑にいる人に声をかけられた。
手が空いていたら、明日少し手伝わないかという話だった。
翌朝、文はいつも通り身支度を整える。
エルカディアの屋敷は、すでに人が動いている時間だ。
廊下を行き交う足音。
短く交わされる挨拶。
どこかで食器が触れ合う音がしている。
以前なら、歩みを緩めていたかもしれない。今は、そのまま外へ向かう。
屋敷を出ると、朝の光はもう高かった。畑は、村の外れにある。土の匂いが濃く、風の通りがいい。
畝の間に立っていたのは、マルエナだった。数日前、顔を合わせたときに名前を聞いていた。少し離れた場所には、夫のドランがいる。二人とも、文に特別な言葉はかけなかった。
文は袖をまくって、渡された道具を受け取ると、そのまま畝の間に入る。
畑仕事は単調だが、気を抜くことはできない。湿り気を含んだ土が、指先にまとわりつく。溝のそばでは、水の流れる音が絶えない。そこは以前、文が水に触れた畑だった。
「あのあと、畑の調子がよくなりまして」
畝を整えていたマルエナが、土の様子を確かめるように言った
「それなら、よかったです。土が落ち着いたんですね」
マルエナは、少し意外そうに文を見た。それから、何か言いかけるように口を開いたが、
「ええ。水の巡りが、変わったみたいです」
とだけ言って、作業に戻った。
昼が近づいたころ、文は一度、屋敷に戻ろうとした。すると、マルエナが声をかけてきた。
「簡単なものですが、今日は、ここで召し上がっていかれませんか」
文はひと呼吸おいてから、うなずいた。
「はい、ありがとうございます」
マルエナは腰の袋から布包みを取り出した。
布に包まれた簡単な昼食だ。
野菜と、汁物。
それから、パン。
文は、渡されたパンを一口かじった。
「……おいしいですね。噛むと、味が出ます」
「このくらいの硬さが、好きな人もいるんです。私も好きですがね」
マルエナはそう言ってから、少し間を置いた。
「うちの息子も、こういうものを焼きたいと、パン職人になりたいと話していました」
文はもう一口、パンをかじった。
「去年王都へ行きましてね。あの子なりに、考えたようで」
「親の私からしたら、火の前に立つ仕事は、朝が早く、手も荒れます。それにあの仕事は温度や時間の管理が、難しい仕事です。もちろん、農業をすることが簡単だとは言いません。ただ、心配なことばかりなのです」
マルエナは少し遠くを見ながら話し続けた。
「村に残ってもよかったのですが、それでもあの子は行きました。まあ、元気ならそれでいいのですがね。手紙の一枚くらい寄こしてもよさそうなものです」
畝を隔てた場所で、ドランは畑を見ている。何も言わず、ただ手を動かしていた。
午後も、作業は続いた。文は言われるままに手を動かし、声がかからない時間も、畝の端を整えていた。畑でとれた野菜は、定期的にエルカディアの屋敷にも回っているのだそうだ。
「文様も、召し上がっているはずです」
「ええ。どの畑のものかは、調理人さんがいつも教えてくれます」
「……それは、うれしいですね」
マルエナは、畝の先を見た。
夕方、畑は昼とは違う色になった。低くなった陽が、土の上をなぞる。
赤ではなく、金に近い光だった。影は長く伸び、畝の形を静かに浮かび上がらせている。文は、手についた土を軽く払った。
ドランは、まだ畑に立っていた。マルエナは、道具を片づけている。
文は、その様子を畑の端から見ていた。道具の音が、少しずつ遠のいていく。今日が終わり、また次の日が待っている。
畑は、金色の中に、静かに収まっていった。




