それでいい
朝食を終えた文は、食事部屋を出て廊下を歩いていた。
部屋に戻り、少し体を休めようと思っていたところだった。
「文様」
呼ばれて足を止める。
エルカディアが柱のそばに立っていた。
「少し、時間をいいですか」
「はい」
「水守のところへ、行ってきてほしいのです」
文はうなずいた。
「カルドさんの小屋ですね」
「ええ。季節の変わり目ですから、
水の様子を一度、見てきていただけると助かります」
頼みごとというより、声かけに近い感じだ。
「戻られたらどんな具合だったか、聞かせてください。
何かあれば、手を貸しても構いません」
「わかりました」
エルカディアは、小さな包みを差し出した。
「これも、持っていってください」
包みの中身を想像しながら、文は両手で受け取った。
「行ってきます」
「ええ。気をつけて」
水守の小屋を訪ねるのは、これで三度目だった。
道順も、水の音の変化も、もう覚えている。初めて来たときの緊張は、ほとんどなかった。戸を叩くと、すぐに返事があった。
「はい」
扉を開けたカルドは、文を見ると軽くうなずいた。
「文様。今日はどうされましたか」
「エルカディアさんのお使いです。水の様子を見てきてほしいと」
「そうですか。どうぞ」
小屋の中は変わらない。簡素で、静かで、水の気配が満ちている。
「こちら、エルカディアさんからです」
包みを差し出すと、カルドは一瞬だけ目を伏せた。
「……気を遣う方ですね」
そう言って受け取り、棚の上に置いた。
「水は大きな問題はありません。流れが少し変わった程度です」
そう言うと、カルドは棚から茶器を取り出した。
湯を注ぐ音が、小屋の静けさに溶ける。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
湯気の立つ器を両手で包み、文は一口含んだ。
草の香りが、ほのかに広がる。
しばらくは、沈黙が続いた。
「あの、カルドさん、少し変なことを言うかもしれませんけど、わたしの話を聞いていただけますか」
「ええ、どうぞ」
文はカルドが首を縦に振ったのを見て、話し始めた。
「……エルフってもっと丈夫なのかと思っていました」
「なぜそう思われたのですか」
「エルフはほかの種族と比べて長命ですよね。村でも病で苦しんでいる方がいるという話を聞きませんし」
「なるほど。私達は確かに長く生きます。しかし、病気にもなりますし、怪我もします。ただ、治りが早いことも確かです」
カルドは茶を一口飲むと、窓の方へ視線をやった。
「私達の一番の強みは『引き際』を知っていることでしょうね」
「『引き際』ですか」
「ええ。限界まで動くことは誰にでもできます。しかし、その前で立ち止まることはなかなか難しい。私達はどこで止まるかを見失わないようにしているのです。そうすることで、何かが壊れたり崩れたりすることを未然に防いでいるということでしょうか」
水の音と、湯気の立つ気配だけが小屋の中を満たしている。
「……エルカディアさんとは、長いお付き合いなんですか」
器を置いてから、文は静かに聞いた。
「ええ、そうですね」
カルドは、少し考えてから言った。
「言葉どおりの人です」
文はうなずいた。
思い返せば、エルカディアの言葉はいつもそのままだ。
取り繕ったり、濁したりすることがない。
「ずっと、こちらで暮らしていらっしゃるのですね」
少し話題を変えて、文は続けた。
「ええ。長いあいだ、この小屋と水と生きてきました」
「一人で過ごす時間は多いですが、それを不都合だと思ったことはありません」
文は何も言わずに聞いていた。
「ここは、自分で選んだ場所です。それで、よかったと思っています」
間があって、カルドは立ち上がった。
「……少し、水を見てもらえますか」
「はい」
カルドは扉を開け、文を外へ促した。
小屋のすぐ脇を流れる水路は、いつもと同じ場所にある。
文は近づき、そっと手を伸ばした。
何かをしようと思ったわけではない。
ただ、水に触れた。
冷たさが、指先をすべっていく。
それだけで、手を離す。
水の音が、ほんのわずかに変わったような気がした。
気のせいかもしれない。
カルドは水面を見てから、文のほうを向いた。
「……いいですね。ありがとうございます」
「いえ……」
文には、何かをした実感はなかった。だが、カルドを少し手伝えた気がした。
文が濡れた手を、カルドが渡してくれた布で拭いていると、カルドが思い出したように言った。
「そうそう。この上流に少し変わった湧き水があるのです」
「変わってるとは?」
「泡の出る水です。ずいぶん前に鹿や猿たちが飲んでいるのを見かけて、私も飲んでみたのですがね」
カルドはそう言うと、一度小屋に戻り、小さな瓶を手にして戻ってきた。
瓶の中で、泡が涼し気に揺れていた。
「……炭酸水だ」
文は思わず大きな声を出してしまった。その泡を見た瞬間、「炭酸水」という言葉が頭に浮かぶと同時に、心がふっと温かくなった。なぜだか、とても懐かしい気がした。
「これ、カルドさんは普段はどうやって飲んでるのですか。そのままですか、それとも何かと混ぜてとか」
文は早口でカルドに質問をした。いつもと違う文の様子に、カルドは少々面食らっているようだった。
「ああ、私はあまり飲みません。珍しいので祭りの時に出店で出したり、エルカディア様のお屋敷に大事なお客様がいらっしゃる時に、お持ちすることはありますが」
「あの、わたし、飲んでみたいのですが」
「ええ、どうぞ。小屋の中に冷えたものがありますから」
カルドは、文の勢いに押されるように、小屋へまた戻り、しばらくするとグラスを片手に歩いてきた。
「さあ、こちらを」
文はカルドからグラスを受け取ると、太陽に向けてグラスを掲げた。炭酸水の泡が、キラキラと輝きながら弾け飛んでいる。
「いただきます」
文は慎重に一口飲んでみる。炭酸の刺激が、舌と喉を刺激する。
「ああ、おいしい……」
文は心からそう思った。たぶん人間として生きていた時は、炭酸水が好きだったに違いない。
「よろしければ、お持ちください」
「はい、ぜひ」
文はお土産に炭酸水の瓶を三本もらうことにした。少し重いが、そんなことは気にしてはいられない。今まであまり見たことのない、文のはしゃいだ様子にカルドは驚きながらも、穏やかな笑顔で見送ってくれた。
帰り道、文はゆっくりと歩いた。戻ったら、エルカディアさんに話そう。
水は穏やかで、カルドさんは変わらず、そこにいたこと。
カルドさんが淹れてくれたお茶がおいしかったこと。そして、変わった水をもらったこと。実は、自分はその水が大好きであること。
それは、特別な報告ではない。
ただの、日々の話だ。
そう思えたことが、文にはうれしかった。




