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旅の理由は、あとで 〜百年かけて生まれたエルフ〜  作者: こなれたタオル
第1章 始まりの森

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問いが生まれた日

 昼の台所は、朝よりも人が少なかった。火の音も静かで、鍋のふたが触れ合う音だけが間を埋めている。文は、食事部屋の入口から少し中をのぞき、足を止めた。


調理人のそばに、若い女がいる。椀を運び、布を整え、何度も手元を確かめている。


――リュエル。


調理人の孫で、台所に入ってまだ日が浅い子だ。以前は文の食事の準備の仕方に、とまどいもあったようだが、最近は慣れてきている。途中で文とも話をすることがあるくらいだ。


文は二人には声をかけず、そのまま部屋に入った。ここは邪魔をしてはいけない。


「文様」


調理人が先に気づいた。


「はい」


「今日は長老様からの用事はありませんよ」


「分かりました」


リュエルはちょうど気の抜けない作業をしているようで、ちらりと文を見た。文が手を振ってあいさつすると、リュエルは小さく頭を下げてすぐに視線を戻し、また手を動かし始めた。文は、リュエルの作業の様子を少し眺めてから、廊下へ出た。


 屋敷の外も、文にとっては日常になりつつあった。


畑のほうから、道具の触れ合う音。

遠くで、誰かが笑う声。


文は屋敷の敷地の端まで歩き、木陰に腰を下ろした。

この場所にもだいたい慣れた。何もしていなくても、不安にならない。


ただ、胸の奥に、引っかかるものがあった。


さっき見た、調理人とリュエル。言葉は少ないのに、息が合っている。

祖父と孫なのだから当然なのかもしれない。家族なのだから。


ふと、思う。


わたしは……。


名前は、文。

祖母は、ヤエさん。

それは、はっきりしている。


それ以外は……。


思い出そうとすると、頭の奥に、手応えのない空白がある。人間だった頃の自分にも、当然家族がいたはずだ。両親はどんな人だったのだろう。名前も顔も思い出せない。なぜか、目覚めてから今までそのことを考えたことがなかった。


家族。

家。

暮らし。


言葉だけが浮かぶのに、景色がついてこない。


知らない、というより、考えられないように、なにかに蓋をされているような、不思議な感覚だ。


その感覚に対して、文自身が不安を覚えたり、寂しさを感じることもなかったし、今も感じていない。


文は、木の幹に背を預け、目を閉じた。小鳥たちのさえずりが頭の上からにぎやかに聞こえる。深呼吸して目を開けると、そのさえずりに呼応するように木漏れ日が揺れていた。


わたしは、今ここにいる。自分の存在はまだ不確かだけれど、それだけは確かだ。


 夕方近く、文はエルカディアの執務室を訪れた。


「失礼します」


「どうぞ」


エルカディアはいつものように、穏やかだった。文は椅子に腰を下ろし、しばらく言葉を探す。


「……今日、台所に行ったんです」


「ええ」


「調理人さんと、その……お孫さんを見て」


 少し、間を置いた。


「家族だなって思いました」


エルカディアは、何も言わずに聞いている。


「それで……」


文は、視線を落とした。


「わたし、家族のことを考えたことがないなって思って」


言葉にすると、思ったより心の中は静かだった。


「思い出せない、というより……考えてこなかった、みたいなんです。そもそもそんな話なんてないような……。なぜだかはわかりませんが」


エルカディアは、すぐには答えなかった。


「知りたい、と思うようになったのですね」


「……はい」


文は、うなずく。


「今すぐじゃなくてもいいんです。ただ……何も知らないまま、ここにいるのは、なんだかおかしな気がしてしまって」


エルカディアは、文をまっすぐに見た。


「それは、とても自然なことです」


「自然、ですか」


「ええ。 『今』が落ち着いたからこそ、過去に目が向いたのでしょう。急がなくていい。だからといって、避けるものでもありません。時が来たら、私があなたにお話しすることになるでしょう。もしかしたら、それよりも前にあなた自身が、記憶や経験について思い出せるかもしれません」


「あなたの魂はまだ若い。無理をしてはいけません」


「はい」


文のその返事に、迷いはなかった。


 エルカディアの執務室を出ると、空は夕暮れに近づいていた。


昼と夜の間。

音も、匂いも、落ち着いてくる時間。文は、立ち止まって空を見上げた。


――知りたい。


その気持ちだけは、前よりもはっきりしていた。

文は、屋敷の廊下をゆっくり歩き出した。

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