問いが生まれた日
昼の台所は、朝よりも人が少なかった。火の音も静かで、鍋のふたが触れ合う音だけが間を埋めている。文は、食事部屋の入口から少し中をのぞき、足を止めた。
調理人のそばに、若い女がいる。椀を運び、布を整え、何度も手元を確かめている。
――リュエル。
調理人の孫で、台所に入ってまだ日が浅い子だ。以前は文の食事の準備の仕方に、とまどいもあったようだが、最近は慣れてきている。途中で文とも話をすることがあるくらいだ。
文は二人には声をかけず、そのまま部屋に入った。ここは邪魔をしてはいけない。
「文様」
調理人が先に気づいた。
「はい」
「今日は長老様からの用事はありませんよ」
「分かりました」
リュエルはちょうど気の抜けない作業をしているようで、ちらりと文を見た。文が手を振ってあいさつすると、リュエルは小さく頭を下げてすぐに視線を戻し、また手を動かし始めた。文は、リュエルの作業の様子を少し眺めてから、廊下へ出た。
屋敷の外も、文にとっては日常になりつつあった。
畑のほうから、道具の触れ合う音。
遠くで、誰かが笑う声。
文は屋敷の敷地の端まで歩き、木陰に腰を下ろした。
この場所にもだいたい慣れた。何もしていなくても、不安にならない。
ただ、胸の奥に、引っかかるものがあった。
さっき見た、調理人とリュエル。言葉は少ないのに、息が合っている。
祖父と孫なのだから当然なのかもしれない。家族なのだから。
ふと、思う。
わたしは……。
名前は、文。
祖母は、ヤエさん。
それは、はっきりしている。
それ以外は……。
思い出そうとすると、頭の奥に、手応えのない空白がある。人間だった頃の自分にも、当然家族がいたはずだ。両親はどんな人だったのだろう。名前も顔も思い出せない。なぜか、目覚めてから今までそのことを考えたことがなかった。
家族。
家。
暮らし。
言葉だけが浮かぶのに、景色がついてこない。
知らない、というより、考えられないように、なにかに蓋をされているような、不思議な感覚だ。
その感覚に対して、文自身が不安を覚えたり、寂しさを感じることもなかったし、今も感じていない。
文は、木の幹に背を預け、目を閉じた。小鳥たちのさえずりが頭の上からにぎやかに聞こえる。深呼吸して目を開けると、そのさえずりに呼応するように木漏れ日が揺れていた。
わたしは、今ここにいる。自分の存在はまだ不確かだけれど、それだけは確かだ。
夕方近く、文はエルカディアの執務室を訪れた。
「失礼します」
「どうぞ」
エルカディアはいつものように、穏やかだった。文は椅子に腰を下ろし、しばらく言葉を探す。
「……今日、台所に行ったんです」
「ええ」
「調理人さんと、その……お孫さんを見て」
少し、間を置いた。
「家族だなって思いました」
エルカディアは、何も言わずに聞いている。
「それで……」
文は、視線を落とした。
「わたし、家族のことを考えたことがないなって思って」
言葉にすると、思ったより心の中は静かだった。
「思い出せない、というより……考えてこなかった、みたいなんです。そもそもそんな話なんてないような……。なぜだかはわかりませんが」
エルカディアは、すぐには答えなかった。
「知りたい、と思うようになったのですね」
「……はい」
文は、うなずく。
「今すぐじゃなくてもいいんです。ただ……何も知らないまま、ここにいるのは、なんだかおかしな気がしてしまって」
エルカディアは、文をまっすぐに見た。
「それは、とても自然なことです」
「自然、ですか」
「ええ。 『今』が落ち着いたからこそ、過去に目が向いたのでしょう。急がなくていい。だからといって、避けるものでもありません。時が来たら、私があなたにお話しすることになるでしょう。もしかしたら、それよりも前にあなた自身が、記憶や経験について思い出せるかもしれません」
「あなたの魂はまだ若い。無理をしてはいけません」
「はい」
文のその返事に、迷いはなかった。
エルカディアの執務室を出ると、空は夕暮れに近づいていた。
昼と夜の間。
音も、匂いも、落ち着いてくる時間。文は、立ち止まって空を見上げた。
――知りたい。
その気持ちだけは、前よりもはっきりしていた。
文は、屋敷の廊下をゆっくり歩き出した。




