卵と牛乳と、甘い香り
昼を少し過ぎた頃、食事部屋の台所には柔らかな光が入っていた。文は入口で一度立ち止まって、奥にいる調理人に声をかけた。
「すみません。少しの間、台所をお借りしてもいいですか」
調理人は手を止め、あっさりとうなずいた。大きな木鉢を持つと、文から少し離れた場所に移動した。
「どうぞ。私は、ここで下ごしらえをしていますから」
見ているけれど、口は出さない。文の様子をよく知っている調理人らしい配慮だ。
文は調理台に向かい、使えそうな鍋と器を選んだ。見慣れない道具ばかりなのに、手は止まらなかった。
不思議なことに考えなくても、手順は分かる気がした。頭で考えるというより、手が自然に動いていくような感覚。
分量も、考えない。
鍋に牛乳を入れ、弱めの火にかける。
温めるだけで沸かさない。
砂糖を加えると、音も立てずに溶けていった。
棚の端に、乾燥させた葉が束ねて置かれている。
文は、手を伸ばしかけて、いったん止めた。
「……これは?」
調理人は、ちらりと棚を見る。
「ミルフィルです。香りづけに使いますね。刺激はありません」
そのまま嗅ぐと、香りは思ったより強い。
ほんのひとつまみ、温めている牛乳に入れ、すぐに取り出す。
するとほんのり甘い香りだけが残った。
別の器で卵を溶く。
白身を切るように、静かに混ぜる。
よく混ざったところで、網で漉す。
さらりとした液体だけが、下に落ちていった。
それを、牛乳に加える。
文は無心で作業を続けた。
卵と牛乳を混ぜた液体を、いくつかの小さな耐熱の器に分ける。
縁まで入れず、少しだけ余白を残した。
蒸し器に湯を張り、火は弱め。
器を並べ、ふたを閉める前に、文は一度だけ手を止めた。
布巾を一枚取り、ふたの内側に軽く挟む。
理由はわからないが、そのほうがいい気がした。
弱火で、少し長めに。
湯気の立ち方と、鍋の音を聞く。
台所は静かだった。甘い香りだけが、ゆっくり広がっていく。
「……いい香りですね」
調理人が、手を動かしながら言った。
「卵と、牛乳を甘くして。固めるだけの、簡単なものです」
「そうですか。……思い出されたのですか」
「いえ……。ええ、そうなのかもしれません。はっきりとではないのですが、作りたいと思えたんです」
「それはよいことです。文様の心が、安定されている証拠です。エルカディア様もお喜びでしょう」
「たぶん、わたしの体調が悪かった時に誰かが作ってくれたとか、そういう自分以外の人の優しい気持ちがこの料理の記憶と一緒にあるのだと思います」
調理人は文の言葉を聞き終えると、木鉢を抱えたまま調味料の棚へ向かった。
頃合いを見て、火を止める。
ふたを開けると、表面にうっすら膜が張っていた。
器をそっと揺らすと中心だけが、わずかに動いた。
――これで、完成。
器を鍋から取り出すと、調理台に並べて粗熱を取る。文は、その様子をしばらく眺めていた。
作れた、というより作っている時間が、楽しかった。
おやつの時間に、小皿にのせて運ぶ。調理人が一口食べ、静かにうなずいた。
「……やさしい味ですね」
「……はい」
文は器の中の淡い黄色を見つめた。誰かのために作ったのか、誰かが自分のために作ってくれたのか、それはわからない。ただこの色を眺めていると、心の奥にじんわりとした温かさを感じた。
部屋に戻る途中、廊下の窓から外を見た。空は高く、光は穏やかだ。
朝、起きて。
食べて。
寝る。
そんな日が、続いていた。
今日は、そこに「作る」という時間が加わった。
卵と、牛乳と、甘い香り。
それだけあれば、今日一日は、ちゃんと生きられる気がした。




