同じ場所で違う歩き方
畑の見回りに出た男は、思わず足を止めた。
端の木陰のあたりに人影がある。今は作業の時間からは外れているはずだ。辺りを見回してみたが、鍬も籠も見当たらなかった。
――ああ。
一昨日、ここで一緒に畑をやった人だ。エルカディア様から、文様と呼ぶようにと聞いている。その人は、畝の中には入っていなかった。畑の縁の木陰に腰を下ろし、土の色を眺めている。作業に入るつもりは、なさそうだった。
風が吹く。
葉が揺れ、乾いた音が重なった。
顔色は、昨日よりはいい。ただ、本調子ではないのだろう。背を木に預け、しばらくそのままでいる。声をかけるべきか迷って、やめた。
しばらくすると男はそのまま歩みを再開した。
文は、視線を感じて顔を上げた。畑の向こうに、人影が遠ざかっていく。気づかれないように、気づかれていたらしい。
文は、短く息を吐いた。朝は、起きるのに時間がかかった。頭の奥に残る鈍さは、完全には消えていない。それでも、部屋の中にいるより、外の空気に触れていたかった。ここまで来て、座っていられるだけでよかった。
畑の土は、一昨日と同じ色をしている。
今日は、手を伸ばさない。作業はしない。畝にも入らない。ただ座って見ているだけだ。
「……おはようございます」
声がして、文は振り向いた。
水桶を持った年配の女が、距離を置いて立っている。足を止め、声をかけてきた。あのとき、文を屋敷まで送ってくれたうちの一人だ。
「おはようございます」
文が返すと、女はほっとしたように微笑んだ。
「今日は、こちらまで来られたのですね」
「はい。少しだけ」
「無理は、なさらないで」
「……ありがとうございます」
女はそれだけ言って、水場のほうへ向かっていった。
誰も、引き止めない。
誰も、急かさない。
それがこの場所のやり方なのだと、少しずつ分かってきていた。
文は畑の縁から一歩下がり、森へ続く道を静かに見た。
今日は、ここまででいい。
大きく息を吸ってみた。もう喉にあった違和感はない。
――屋敷に帰ろう。
文は立ち上がると、もう一度大きく息を吸った。
エルカディアの屋敷はいつも静謐な空気が流れている。外よりも静かで、音が少ない。文は、廊下をゆっくり歩き、エルカディアが普段執務を行っている部屋の前で立ち止まった。少し迷ってから、扉を叩いた。
「どうぞ」
「……失礼します」
エルカディアは、書き物の手を止めて顔を上げた。文の姿を見ると、何も言わずに向かいの椅子を示す。文は腰を下ろし、口を開いた。
「今日……畑のところまで、行ってみました」
エルカディアは、驚いた様子を見せなかった。ただ、静かに聞いている。
「作業はしていません。座って、見ていただけです」
「ええ」
「でも……」
言葉を探すように、一拍置く。
「誰かに、気づかれていたみたいで。でも、止められたりは、しませんでした」
エルカディアの目が、わずかに柔らぐ。
「……それは、よかった」
「はい」
文は、胸のあたりに残っていた感覚を、そのまま言葉にした。
「エルカディアさん、わたし、わかったことがあります」
部屋に、短い沈黙が流れた。
「どんなことですか」
「最初は、なんとなく、どこか、遠慮がありました」
「覚えていることは少ないし、事実として受け止めることはできても、理解することはなかなか難しくて……」
文は、目を伏せた。
「……自分のことを、どう言えばいいのかさえ、まだ、よく分からないんです」
「でも、わたしの居場所はここなのかもしれないって、思えるようになりました」
「それで、いいのです」
エルカディアは、即座にそう言った。
「分からないままでも、感じたことを、言葉にできるようになった。それで、いいのです」
文は、ほっと息を吐いた。
「……それと」
もう一つ、気になっていたことを口にする。
「皆さんに、ご迷惑を……かけてしまった気がしていて」
エルカディアは、首を横に振った。
「迷惑だと受け取った者はいません。心配はありましたが」
文は、うなずいた。
「……それなら」
「思い出せた料理が、ひとつあって。簡単なものなんですけど……お礼に、作ってみようかなと」
エルカディアは、目を細めた。
「それは、きっと喜ばれます」
その言葉に、文は肩の力が抜けた気がした。
「まだ、全部ではないですけど……」
「ええ。少しずつで」
エルカディアは、そう言って、文から視線を外した。
――外を見る頃合いは、近い。
その考えを口には出さなかったが、エルカディアには確信のようなものがあった。
文は立ち上がり、軽く頭を下げる。
「今日は、これで……」
「ええ。ゆっくり休んでください」
部屋を出ると、空気が先ほどよりもやわらかく感じられた。
今日の文は、昨日までとは違う歩き方で、そこを歩けた気がした。




