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体が覚えていること

 早朝の村の空気は、澄んでいる。文は、屋敷の裏手から畑へ向かう小道を歩いていた。作業用の服に着替え、髪を軽くまとめている。肩に羽織っていた外套は、途中で脱いだ。


今日は、畑に出るつもりだ。

畑には、すでに何人か来ている。土を見て、道具を整え、それぞれの持ち場に散っていた。


「文様、今日は早いですね」


声をかけてきたのは、年配の女だった。


「今日は、少し動いてみたくて来ました。なにかお手伝いできることはありませんか。皆さんのご迷惑にならない程度で」


「まあ、ご迷惑だなんて……。そんなことはありませんよ」


女は畑を見回すと、すぐ近くにいた男に声をかけてから、文を手招きした。


畑の端には、鍬や籠がまとめて置かれている。共同で使うための道具だ。

文は、その中から一本を手に取った。重さを確かめるように、握り直す。


土に鍬を入れる。

返す。

ほぐす。


考える前に、体が動いた。


――ああ。


文は、ふと気づいた。この動きは、覚えている。


地面の硬さを読む手。

力を入れすぎない角度。

呼吸の取り方。


エルフとしての記憶ではない。

この世界に来てから学んだものでもない。


もっと前。

もっと違う場所。


どこだったかは、分からない。

それでも、体は知っているようだ。


日が高くなり、畑の空気が温まってくる。文は作業を続けた。一区切り、もう一区切りと、自分で線を引きながら。


 昼前、文はいったん畑を離れた。屋敷に戻ると、食堂にはもう湯気が立っている。席に着くと、調理人が何も言わず、器を置いた。


「今日の作業は、ここまでにしておいたらいかがですか」


声は低く、穏やかだった。


文は「はい」と答えた。

その声は自分で思っていたより、掠れていた。


少し疲れたのかもしれない。

だが、食事をして休めば大丈夫だろうと思った。



 午後の畑は、午前より静かだった。文は、腰を落として、草を抜いていく。一本、もう一本。集中して、つい、休むことを忘れてしまいがちになる。この作業を始めてどのくらいたったのだろう。


無意識に大きく息を吸おうとして、思ったより空気が入らないことに気づく。


その瞬間、喉がひりついた。文はそのまま、咳き込んだ。一度きりでそれは止まるはずだった。ところが息を吸うと、また出る。胸の奥が、ひっかかり、呼吸が思ったより浅い。


文は、手を止めた。


 ――あ。


そう思った瞬間、咳が続いた。畑の音が途切れる。誰かの手が止まり、鍬が地面に当たる音が遅れた。


「……文様?」


呼ぶ声は、小さかった。誰もすぐには近づかない。かといって、離れもしない。

視線だけが集まった。誰かがおそるおそる声をかけた。


「……どう、されましたか」


文が答える前に、もう一度、咳が出る。周囲の空気が、少し変わった。文は、息を整えようとして、うまくいかないことに気づいた。頭の奥が、じんと重い。体の芯が、妙に熱を持っている。


 ――そうか。


文は、ぼんやりと思う。知っていたはずのことだ。エルカディアからも、聞いていた。自分は、他のエルフと完全に同じではない。

それでもどこかで、平気な気がしていた。知らないうちに無理をしたのかもしれない。


「……戻りましょう」


誰かの声がした。

文は、反射的に「大丈夫です」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。

鍬が、静かに手から離れる。代わりに、誰かがそれを受け取った。


朝、文に声をかけた年配の女が屋敷まで付き添ってくれるという。

文は大丈夫だと何度も言ったが、女は頑としてそれを受け入れる様子はない。

畑を離れ、屋敷へ戻る道すがら、文の足取りは朝よりも重かった。


屋敷に着くころには、力がすっかり抜けていた。

長椅子に腰を下ろすつもりが、そのまま横になる。

目を閉じた瞬間、どっと疲れが押し寄せた。


体が覚えていることと、体が耐えられることは、同じではない。

文はその違いを、はっきりと実感した。

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