呼び名が足りない
朝の屋敷は、静かだった。
音がないのではなく、日常の中の音たちがいつも通りのリズムを刻んでいる。
文は、ベッドから起き上がり、まだ少し重たい体をゆっくり伸ばした。身支度を整えてから食事部屋に向かう。昨夜のことは、誰も話題にしない。食卓には温かい朝食が並び、調理人は何も言わずに動いている。器の数は少なく、余分なものもない。昨日の朝と変わらない風景だ。
焼き菓子の包みは、見当たらなかった。
――もう、終わったのだ。
そう理解するのに、誰からの説明もいらなかった。文は、ゆっくりとお茶を飲むエルカディアを見る。この人は昨夜も、今朝も、変わらない。ただ人が来て、話をして、帰っていく。
それだけのはずなのに、屋敷の空気はどこか整っている。
――そういえば、この人、長老なんだよね。
村長、という言葉もしっくりこない。役所の長、という感じでもない。ただ、得も言われぬ力を感じることは確かだ。村の皆から尊敬されていることは、ここに来てすぐにわかった。
いつ、仕事をしているのだろう。
いつ、考えているのだろう。
いつ、決めているのだろう。
毎日忙しいはずなのに、きちんと文を気遣ってくれていて、それでいて、それを前面に出そうとはしない。そういうところが、人として見習うべきところだと文は感じていた。
朝食が終わると、エルカディアは席を立った。文はいつものように、そのまま後についていく。食堂を出た廊下を少し行くと、小さな部屋がある。エルカディアが長老として、応対するための場所であり、仕事の話をするための場所でもある。
改まった執務室というほどではない。とはいえ、私的な空間でもない。
文は、部屋の隅に用意された椅子に腰を下ろした。膝の上で、自然と手を重ねる。
屋敷に、人が訪れ始めた。
畑の水の話、林の境のこと、市のあと始末。
どれも急ぎではないが、後回しにはできない話ばかりだ。
エルカディアは、長く話さない。
一度聞き、ほんの少し間を置いて、一度うなずき、短く返す。
言葉は少ないのに、話は先へ進んでいく。文は、その様子をいつも興味深く見ていた。この会話を聞くことで、エルカディアに直接教えてもらわなくても、エルフの社会や村のシステムを知ることができた。
ある年配のエルフは、部屋を出る前に、ほんの一瞬だけ姿勢を正した。
敬意というほど大げさではない。長老に向けるものとも、少し違う。
別の者は、言いかけた言葉を飲み込み、安心したように帰っていった。
裁かれてもいないし、放り出されてもいない。ただ、エルカディアによって問題が整理され、正しい方向へ道筋がつけられているのだ。
その中に、見慣れない男がいた。旅装の名残があり、身につけているものはどれも使い込まれている。村に根づいた者ではないようだ。
その視線が一瞬だけ文に向けられ、すぐにエルカディアへ戻る。
エルカディアは、その男とも同じ調子で言葉を交わした。だが、ほんの少し距離の近さがあるように文には感じられた。
文は考えた。昨夜の謝罪も、きっと特別な出来事ではなかった。ここでは、こうして日々が少しずつ修正されていくのだろう。そしてそれに皆納得している。文は、この小さな部屋を、改めて見回した。
人の出入りは多い。しかし、余計なものはなにも残っていない。話し合いの痕跡も、感情の置き去りも、ここには見当たらなかった。
掃除の行き届いた床。
過不足のない器の配置。
長居を強いられない、穏やかな温度。
そのすべてが、清らかな川のように一つの流れになって、部屋の中を温かく満たしているようだ。
エルカディアは、最後の来客を見送り、席を立った。まだ仕事は残っているはずだが、その背中に疲れは見えなかった。
長老、という言葉では、どうにも足りない。
――この人は、いったい何者なんだろう。
エルカディアのことを少しずつ知るたびに、その問いはより深くなっていった。




