市の日
市へ行く話は、以前から出ていた。
「文様、明日は村で市が開かれます。ご一緒しませんか」
エルカディアは、夕食の席で文に声をかけた。
「どんな市なのですか」
「この森の近くといっても、今我々が住んでいる森はとても広大なのですが。森の近隣の村や王都からも商人がやってきたり、それぞれの村の特産品を持ち寄って売るのです」
「王都以外の場所で開かれる市の中では、一番大きな規模のものと言っても過言ではないでしょう。なにか欲しいものがあれば、私に声をかけてください」
文はぜひ行きたいと返事をすると、その日は早めにベッドに入った。
市が開催される朝は早い。
まだ霧の残る森を抜け、村の人々がそれぞれの荷を背負って集まってくる。
中には、見慣れない外套の者もいた。近隣の村から来たのだろう、言葉の調子や、荷のまとめ方に違いが見える。
市は、月に一度。
文が最初に歩いた、中央に水盤のあるあの広場で開かれる。
普段は、子どもが水面を覗き込み、静かに時間が流れるだけの場所だ。 今日は、そこに仮設の屋台が並び、人と物の気配が重なっていた。
文は、最初のうちは屋台の一つ一つに足を止めていた。
食べ物。
布。
道具。
見覚えのあるものや、初めて見るもの。それらを目で追っているだけで、心は浮き立った。品を差し出し、受け取る者もいれば、小さな金属を掌に載せる者もいる。
――お金。
この世界でのそれを、文はまだよく知らない。それどころかこの世界の常識をたぶんほとんど知らないだろう。いつも周りの人たちが手助けしてくれるおかげで、自分がこの世界にとって異質な存在であることを忘れそうになることがある。
自分は何ができるのだろう。自分は、何を持っているのだろう。
食べて、 寝て、まだそれしかしていないのに。いつもそれ以上のなにかをみんなから、受け取っている。
考え始めたあたりで、周囲の音が少しずつ重なり始めた。
人の動きと、声と、匂いが、一度に押し寄せてくる。
文はしばらくその中に立っていたが、やがて無意識のうちに歩幅を落とした。
エルカディアの、半歩後ろ。
立ち止まる回数が増え、水盤の水音だけが、妙に耳に残る。
途中で調理人とリュエルが籠を持って、買い物しているところに出くわした。リュエルが何か文に話した気がしたが、あまり耳に入ってこないせいで、なんとなく曖昧に頷いてしまった。
それからしばらく歩いて、すべての店を見終わると、エルカディアは文の肩にそっと手を触れてから、そのまま元来た道を歩き出した。歩きながら、不思議なことに文は自分のまわりに静かな空間ができたように感じた。
帰り道、文はほとんど口を開かなかった。開けなかったというほうが正しいのかもしれない。エルカディアの屋敷に戻ると、あれだけ騒がしかった音が、スッと消える。荷を下ろし、外の空気を払うように外套を脱ぐと、文は長椅子に腰を下ろした。
少しだけ休むつもりだったが、次に気がついたときには、外はすっかり暗くなっていた。夜の静けさを割るように、表の扉が控えめに叩かれた。
応対したのは、屋敷の世話役の女性だ。文の部屋からでもかすかに話し声が聞こえてきた。少しすると、誰かが廊下を歩いてくる音が聞こえた。
「……来客です。玄関までお越しください」
エルカディアの低い声がした。
文は、ゆっくり体を起こした。頭はまだ働いていなかったが、なんとか身支度を整えた。玄関まで行くとエルカディアの姿が見えたので、その少し後ろに立つことにした。
夜に、人の家を訪ねる者は多くない。ましてや村の長であるエルカディアの屋敷だ。扉の外には、三人の来訪者が立っていた。
ひとりは、共生の儀で、文に声をかけてきた男。
その前に、両親と思しき男女がいる。
母親の手には、丁寧に包まれた焼き菓子。
それは床に置かれ、深く頭が下げられた。
「このたびは、
教えが行き届かず、申し訳ありませんでした」
言葉は短く、言い訳はない。
男は、視線を落としたまま言った。
「……軽率でした。申し訳ありません」
文は何も言わずに、ただ一度だけエルカディアを見た。
「置いていきなさい」
エルカディアは、それだけ言った。
焼き菓子は受け取られ、謝罪はそこで終わった。
扉が閉まる。
夜の気配が、戻った。
文は息を整えた。昼の賑わいも、疲れも、ここにはない。
誰も声を荒げることなく、誰も責めることもなかった。ただ淡々と謝罪が行われ、それが受け取られた。
あれで、終わりなのだろうか……。きっと、終わりなのだろう。
エルカディアは何も言わなかったし、あの親子もそれ以上何も言わなかった。
文は閉じられた扉を見つめながら、この世界の静けさを改めて感じた気がした。




