水守の小屋
「今日は、水守の小屋にいってみませんか」
食事部屋で朝食を終え、文は茶を飲んでいた。そこへエルカディアが声をかけた。文は器を置くと、エルカディアに向き直った。
「はい。行ってみたいです」
「では、準備ができたら声をかけさせますので」
エルカディアはそう言って、食事部屋を出て行った。
水の音が、先に聞こえていた。
灌漑路へ向かう道は、森の中を低く走っている。踏み固められた土の下を、見えない水脈が通り、足元にかすかな冷えを残していた。
エルカディアは、迷いなく歩く。この道を、何度も通ってきた足取りだ。
森を縫うように続く石造りの水路は、派手な造りではない。根を避け、土を受け、角度を変えながら、水は、ただ途切れずに流れている。
「ここは、毎年少しずつ手を入れています」
歩きながら、エルカディアが言う。
苔が削られた跡。
補修された石。
古い部分と新しい部分が、自然につながっていた。
文は、少し意外に思った。もっと大きな力で制御しているものだと、どこかで思っていたからだ。
「水は、流れたがるものです。人がするのは、邪魔をしないことなのです」
水路は、途中で枝分かれしていく。
畑へ。
水田へ。
井戸へ。
そして、命の樹のもとで生まれる命の、最初の水へ。
この水は、エルフの営みのすべてを通っている。
文は、足を止めて水路の縁にしゃがみ込んだ。石の隙間に、苔が溜まっている。
思わず、手を伸ばしかけて、止めた。
これは、見学だ。自分の仕事ではない。
「やってみますか」
文は顔を上げた。
「……いいのですか」
「ええ」
文はそっと苔を取り除いて、指先で石の縁をなぞった。
水は一瞬ためらうように揺れ、それから静かに流れを整えた。
音が、ほんの少し変わる。
文は手を引っ込めた。
――触って、よかったのだろうか。
エルカディアは満足そうにうなずくと、また歩き始めた。
やがて、二人は水源へと辿り着いた。森の奥、流れの始まりに、古びた小屋が建っている。村が用意した、管理のための建物だ。エルカディアが扉を開けると、森の冷えよりもやわらかい空気が、内側に満ちていた。
中は狭いが、散らかった様子はなかった。
床に物は置かれておらず、壁際には必要な道具が並んでいる。
修繕された跡のある棚。
村の刻印が入った道具箱。
私物らしいものは、端に寄せられていた。
ここは住まいというより、詰所だった。
休むための場所ではなく、備えるための場所なのだろう。
エルカディアは、部屋を見回すこともなく、奥の椅子へ向かう。
さも当然のように腰を下ろした。
そこが、自分の席だと言わんばかりに。
水源の管理人、カルドはすでに湯を用意していた。
無駄のない動きで器に注ぎ、まずエルカディアへ差し出す。
言葉はない。
礼もない。
それで成立する関係のようだ。次に、文へ器が向けられる。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
器から立つ湯気には、草の香りが混じっている。少しだけ、甘い匂い。
口に含むと、苦味はなく刺激もない。喉の奥が静かにほどけていく。
仕事を終えたあと、呼吸を取り戻すような味だった。
酒を飲む習慣はあまりないようだ。棚には干し肉やナッツが吊られ、保存瓶には日付が記されている。端には、布に包まれた野菜もあった。
誰かが時々ここを訪れているのだろう。その痕跡だけが、ささやかに残っている。
しばらく言葉は交わされず、湯気の立つ器だけが動いていた。
カルドが口を開いた。
「上流は、今年も安定しています」
声は低く、抑揚はない。
「春先に一度、根が張りましたが、流れを変えるほどではありませんでした」
エルカディアは、うなずくだけだ。
「下の分岐は、畑側が少し早いです。雨が少なかった分、人が使う量が増えています」
良いとも悪いとも言わない、ただの報告。
「水田は、問題ありません。今年も、稲は育つでしょう」
一拍置いて、続ける。
「井戸へ回る分も、今のところ、減らす必要はありません」
文は気付いた。この人は、水の量だけでなく、人の暮らしそのものを量っているのだと。
「命の樹の周りも、異常はありません」
ほんのわずかに、声が低くなった。
「生まれる命に回る水も、滞りなく」
エルフにとって、それがどれほど重要なことか、カルドの様子を見ていればわかる。
エルカディアは、短く答えた。
「結構だ」
カルドは、ふと顔を上げた。
「……水の音が、少し違うな」
エルカディアは、ちらりと文を見る。
「手を入れたのだ」
カルドは文を見た。特別視しているようではない。
「……そうですか」
それ以上は何も聞かない。それだけエルカディアを信頼しているのだろう。
やがて、エルカディアは持ってきた袋をテーブルの上に置いた。
「少し多めにも持ってきた。預けておく」
中には、保存の利く食べ物と、新しい手袋が入っている。
カルドは中を確かめ、短く息を吐いた。
「……助かります」
小屋を出ると、水音がはっきりと耳に戻ってきた。光も、外のものに戻る。
帰り道、文はエルカディアの少し後ろについて、森の中を歩いた。改めて、大きな背中だと思う。背丈のことではない。水を見守る者がいて、国を預かる者がいる。
どちらも、誰かに見せるための仕事ではない。
ただ、続けるための営みだ。
支えるということの重さを、
文は、その背中から学んでいた。
言葉にはしない。
考えも、まだ形にならない。
ただ、何かが胸の奥に、積み重なっていくさまを感じずにはいられなかった。




