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シンジケート  作者: Tohna
ベルリン・ワルシャワ
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最終話 宿命

 ベルリンの惨劇から三ヶ月。欧州の短い秋が過ぎ去り、トスカーナの丘を冷たい冬の風が吹き抜ける季節が巡ってきた。


 フィレンツェの街並みは、クリスマスの装飾に彩られ、石畳の道には焼き栗の香りが漂っている。


 だが、アルテミオ・フランキ・スタジアムの周辺だけは、相変わらずフットボールという名の宗教に殉ずる熱狂的なティフォジたちの熱気に包まれていた。


 卯月優吾は、誰もいない早朝のスタンドの最上段に座り、霧に煙るピッチを見下ろしていた。


 あの日、ベルリン中央駅の地下四階、冷たい鉄路の響きと共に消えた中嶋啓吾の最期は、公式には「国際テロ組織内部の抗争による偶発的な爆発と事故」として処理された。


だが、その裏側で起きた真の「清算」を知る者は少ない。


 北小路誠也とヴァンサンの調査によって明らかになったのは、中嶋啓吾という男の、あまりにも徹底した二重の裏切りだった。


 啓吾が死の直前に実行したコマンドは、優吾への捏造データの拡散だけではなかった。


 彼は、組織「23」がこれまで世界各地で行ってきたマネーロンダリングの全記録、そしてジェルジンスキの個人口座に繋がるバックドアの鍵を、暗号化してインターポールのサイバー犯罪部門へ「匿名」で一斉送信していたのだ。


 ベルリンの夜、中央駅で啓吾が消えた数日後、ポーランドの隠れ家にいたパヴェウ・ジェルジンスキのもとへ、かつてない規模の特殊部隊が突入した。


 啓吾によって「ノイズ」として切り捨てられたはずのマチェックの遺した証拠、そして啓吾が最後に放流した決定的なデータ。


 それらにより、難攻不落だった「23」のネットワークは、ドミノ倒しのように崩壊していった。


 ジェルジンスキは現在、ハーグの国際刑事裁判所へ向けた極秘の移送中にあり、組織としての「23」は事実上の壊滅状態にある。


 啓吾は、自分自身を餌にして、優吾を光の中に突き飛ばすと同時に、自分を縛り付けていた闇の王国そのものを道連れに地獄へと落ちたのだ。


 北小路誠也とヴァンサンが、命懸けでデジタル空間に介入し、啓吾が死の直前に世界へ放流した捏造データを完全に消去したおかげで、優吾の社会的名誉は守られた。


 優吾は今も「ヴィオラの英雄」であり、八百長に関与した汚名を着せられることもなかった。


 だが、優吾の心には、啓吾が最期に刻みつけた「一点の傷」が、癒えることのない深い痕跡となって残っている。


「何をしてる、ユウゴ。練習は十五分前から始まってるぞ」


 背後から響いたのは、フランシス・リベリーノの野太い声だった。


 三十九歳になった伝説のストライカーは、今シーズン限りでの現役引退を正式に表明している。


 彼は優吾の隣に腰を下ろし、同じように無人のピッチを眺めた。


「ベルリンのことは忘れろとは言わん。だがな、ピッチに立てば俺たちはただのフットボーラーだ。過去を背負って走るほど、このスポーツは甘くないぞ。お前が立ち止まれば、後ろから来る奴らにすぐ食い殺される」


「……分かっています、フランシス。ただ、あいつが最後に笑ったような気がして、それを思い出していたんです」


「笑った? あの狂った男がか。……まあ、あいつにとってのゴールは、お前を地獄へ連れて行くことじゃなく、お前を光の中に突き飛ばすことだったのかもな」


 リベリーノは立ち上がり、ジャージのポケットから笛を取り出した。


「なら、あの小僧はどうする。お前の『推薦』で入ってきたんだ。責任を持てよ」


 リベリーノが指差した先では、一人の東洋人の青年が、黙々とシュート練習を繰り返していた。カン・ソングー。組織「23」の崩壊後、証人保護プログラムの適用と、ジャック・グノーによる粘り強い法的交渉を経て、彼はフィレンツェCCの練習生として再出発の機会を得ていた。彼もまた被害者として八百長への関与を赦されたのだった。


 ソングーの瞳からは、あの夜に張り付いていた絶望や怯えは消え、代わりにかつて失ったはずの、純粋なゴールへの飢えが宿り始めていた。


 彼は今、偽りのハットトリックではなく、自分の足で掴む一点のために、泥にまみれてボールを追っている。


 スタンドの中段では、ジャック・グノーがスマートフォンを片手に、派手なジェスチャーでスカウトたちと交渉を繰り広げていた。


 ベルリンで大破した白いシュコダ・オクタビアは廃車となったが、彼は新調した黒の最高級セダンを転がし、再び欧州移籍市場の主役へと返り咲いていた。


 ジャックにとって、優吾を守り抜いた経験は、数千万ユーロの移籍金よりも価値のある、エージェントとしての真の矜持となっていた。


「ユウゴは売らないぞ。彼はフィレンツェの宝だ」


――そんなジャックの声が、冬の空気に響いている。


(北小路さんたちは、今どこにいるんだろう)


 北小路とヴァンサンは、ベルリンの闇を暴いた後、再びそれぞれの組織に戻っていった。

 

 彼らにもまた新しい事件が待っているのだ。



 優吾はゆっくりと立ち上がり、ピッチへと続く階段を下り始めた。


 足元に転がってきたボールを一つ拾い上げ、その感触を確かめる。


 革の匂い、重み、そして空気圧。かつて電気自動車の監禁部屋で、死の恐怖に怯えながら触れていたボールとは違う。


 これは、自由と責任の重みそのものだ。


 啓吾が最後に残した言葉。「お前は、まだ光の中にいろ」。


 兄が自分の命と引き換えに守ったその光が、どれほど残酷で、どれほど尊いものか。優吾は、かつて自分を支配していた「兄への依存」や「組織への恐怖」から、本当の意味で解放されたことを悟った。


 だが、それは同時に、光を浴び続けるための孤独な戦いが続くことも意味していた。


 自分がピッチで咆哮し、ゴールを奪い続けること。


 それが、闇に消えた啓吾に対する、唯一の、そして最高の「復讐」であり、同時にたった一人の肉親への「鎮魂」なのだ。


 優吾が一点を決めるたびに、啓吾が仕掛けた「三つの死」という呪いは、一つずつ書き換えられ、再生の物語へと昇華されていく。


「ユウゴ、来い! 今日は俺が三点決めて、お前の鼻を明かしてやる!」


リベリーノの挑発に、優吾は不敵な笑みを返した。


「いいですよ。でも、アシストは期待しないでください。俺も三点、取りに行きますから」


 優吾はピッチに駆け出した。


 スタジアムの外では、数千人のティフォジたちが開門を待ちわび、彼らの英雄の名を歌い始めている。


 かつて日本で、一台の車の中から始まった絶望の物語は、ベルリンの霧を抜け、フィレンツェの冬の空の下で、新しい一歩を踏み出した。


 優吾が見上げた空には、どこまでも澄み渡るヴィオラの紫が広がっている。

 

 その雲の切れ間に、一瞬だけ、皮肉げに笑う兄の面影を見たような気がした。


 優吾は力強く、芝を蹴った。

 

 光の射す方へ、ゴールの向こう側へ。

 

 卯月優吾の、本当の「ハットトリック」は、ここから始まるのだ。



--完--

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