第42話 ベルリンチェイス
非常用照明の赤黒い光に照らされたオリンピアシュタディオンは、もはやフットボールの聖地ではなく、逃げ場のない巨大な檻と化していた。
パニックに陥った二万人の群衆が狭い通路に殺到し、怒号と悲鳴が反響する中、ジャック・グノーはピッチへと駆け下りていた。
「ユウゴ! どこだ、ユウゴ!」
かつてリールのスター選手として数多の歓声を浴びたジャックの声は、今の混迷の中ではあまりにも微力だった。
だが、ピッチ中央で立ち尽くす愛弟子の姿を見つけた瞬間、彼は迷わず駆け寄った。
優吾は、闇に消えた啓吾の残響を追うように立ち尽くし、その傍らではソングーが絶望に打ちひしがれ、ピッチに額を擦り付けていた。
「ジャック……啓吾がいたんだ。あそこに啓吾が!」
「今はいい、動け! ここはもう戦場だ」
ジャックは優吾の腕を強引に掴み、スタジアムの地下駐車場へと繋がる選手専用通路へと引きずり込んだ。ソングーもまた、生きる本能に突き動かされるように、フラフラと二人の後を追った。
同じ頃、スタジアムの地下深く、メインサーバー室へと続く通路で、北小路誠也とヴァンサンは絶体絶命の窮地に立たされていた。
重厚な防火扉が冷徹な音を立ててロックされ、密閉された空間にはシューという不気味な音が響き始めた。
「セイヤ、これは催涙ガスじゃない……消火用の二酸化炭素だ。啓吾の奴、俺たちを生物的に消し去るつもりだ!」
ヴァンサンが激しく咳き込みながら、扉の操作パネルに端末を接続する。北小路は薄れゆく意識の中で、眼鏡の奥の瞳を険しく光らせた。
「啓吾……貴様はどこまで、血を汚せば気が済むんだ……」
地上では、啓吾の手によって解き放たれた三台の黒いランドクルーザーが、スタジアムの主要な出口を封鎖するように陣取っていた。霧の向こう側で、スティンガーミサイルの射撃管制音が「ピピピピ……」と高い周波数で鳴り響く。それは、スタジアムから逃げ出そうとする特定の車両を狙い定める、死のカウントダウンだった。
ジャックたちは、混乱を極める地下駐車場に辿り着いた。そこには、ジャックがベルリン滞在のために手配していた白いシュコダ・オクタビアが、静かにその時を待っていた。
「ユウゴ、助手席に乗れ! ソングー、お前は後ろだ。床に伏せていろ!」
ジャックがエンジンをかけると、シュコダの1.5L TSIエンジンが、場違いなほど軽快な音を立てて目覚めた。
周囲では高級車が我先にと出口へ殺到し、衝突事故が多発している。
「ジャック、北小路さんたちは? あいつらはどうなったんだよ!」
「あいつらなら大丈夫だ、地獄の沙汰もデジタルで解決する連中だからな。今は自分の心配をしろ。……来るぞ!」
地下駐車場のスロープを駆け上がった瞬間、シュコダのフロントガラスを強烈なサーチライトが照射した。
霧のカーテンを切り裂いて現れたのは、啓吾が送り込んだ一台のランドクルーザーだった。
「ヒャッホゥっ! 追いかけっこの始まりだ、ユウゴ!」
ジャックはかつてピッチで見せた神懸かり的な判断力を、ステアリング操作へと注ぎ込んだ。
シュコダはランドクルーザーの巨体を紙一重でかわし、スタジアムの外縁道路へと躍り出る。
背後からは、二台、三台とランドクルーザーが距離を詰めてくる。
その屋根の上からは、スティンガーを肩に担いだ「23」の構成員が、シュコダの排気熱をロックオンしようとしていた。
「ジャック、後ろで何か構えてる!」
「分かっている! お前、シートベルトをしっかり締めろよ。プロの運転を見せてやる」
ジャックは、かつてオランダのチームとの訴訟で全てを失いかけた時に感じた、あの乾いた怒りをアクセルペダルにぶつけた。
白いシュコダはベルリンの石畳を鳴らし、霧の中へと消えていく。
その先には、啓吾が待ち構える「第二の爆心地」が、暗い口を開けていた。
一方、地下の密閉空間では、ヴァンサンが死に物狂いでハッキングを完了させていた。
「……開いたぞ、セイヤ! 走れ!」
防火扉がわずかに開いた瞬間、二人は新鮮な空気を求めて飛び出した。
北小路の手に握られた端末には、啓吾の個人ウォレットから発信される、最終的なテロ工作の実行ポイントが示されていた。
「ベルリン中央駅……。啓吾、お前の目的は、優吾を殺すことだけじゃないのか?」
北小路は、霧に包まれた夜の街を見据えた。
スタジアムから遠ざかるシュコダのバックミラーの中で、オリンピアシュタディオンの照明が再び、一瞬だけ激しく明滅した。
それは、中嶋啓吾という怪物が、ベルリンという街そのものを飲み込もうとする、狂気の合図のように見えた。




