第40話 最高潮と暗転
ベルリンの夜空を覆う霧は、試合開始と共にスタジアムの芝生を濡らし、選手たちの視界を奪い始めていた。
2万人余の観衆の歓声は、霧に吸い込まれるように鈍く響く。
フィレンツェCCのエースとして、ヴィオラの誇りを一身に背負いピッチに立つ卯月優吾は、対峙するカン・ソングーの瞳に宿る異様な怯えに、言いようのない違和感を覚えていた。
ソングーの怯えには、単なるプレッシャーとは異なる、逃げ場のない絶望が張り付いていた。
彼はかつてマチェックから囁かれた
「お前の大切なモノ、あるいは人に常に目を光らせておけ」
という不気味な忠告を、一瞬たりとも忘れたことはなかった。
ニール・フスを襲ったあの不可解な交通事故、そして自らの口座に振り込まれ続ける、年俸を遥かに凌ぐビットコインの報酬。
それらは恩恵などではなく、失敗した瞬間に自らの首を絞める、あるいは故国の家族の身に牙を向く「呪い」であることを、ソングーは痛いほど自覚していた。
本来ならば、この欧州最高峰の舞台で優吾と競い合える喜びを感じるはずだった。
しかし、ソングーの脳裏を支配しているのは、マチェックから下された「気負って外すな、指示通りに動け」という冷徹な命令のみだ。
優吾の眩いばかりの純粋な闘志を前に、ソングーは自分がもはや後戻りできない暗黒の淵に立たされている恐怖に、呼吸を乱していた。
前半、試合は不可解な展開を見せた。
開始早々の10分、フィレンツェの放ったミスキックのような浮き球に対し、相手ディフェンダーたちが揃って足を滑らせるという、プロにあるまじき失態を演じたのだ。
こぼれ球を拾った優吾は、困惑しながらも無人のゴールにボールを流し込んだ。
ここで、リベリーノは奇妙な違和感を覚えていたリベリーノは確信した。このプレーに限らず、シャルロッテンのセンターバックたちの動きが、あまりにもぎこちないのだ。
激しく当たってくるかと思えば、決定的な場面で急に足が止まる。まるで、ピッチ上の出来事よりも、ベンチやスタンドからの「見えないサイン」に怯えているかのようだった。
「あいつら、フットボールをしてねえぞ……」
リベリーノが吐き捨てた言葉通り、シャルロッテンの守備陣は、マチェックから下された「適度に隙を作れ」という指示と、啓吾が裏で流した「マチェックを信じるな」という偽情報の狭間で、完全に自滅していた。
さらに25分、今度は審判の不可解な判定でフィレンツェにPKが与えられる。優吾はこれを冷静に沈めたが、スタジアムには歓声よりも戸惑いの混じったどよめきが広がっていた。
優吾は確信した。
昨年、ミュンヘナーのBチームの、若いトルコ系フォワードが八百長に加担して、そして組織に殺された。
そのことを発端に、欧州の選手の間では、妙な噂が絶えず立っていた。
ーー今時、八百長の誘いがあるらしいーー
(啓吾がいる組織がこれを仕組んでいる)
「ふざけるな……。俺は、こんなもののためにここまで来たんじゃない!」
後半、優吾の魂が燃え上がった。
彼は組織の書いた台本を、自らの剥き出しの実力で書き換えようとした。八百長の網に掛かっていないチームメートだけを信じ、彼は猛然とピッチを駆ける。
後半35分、決定的な場面が訪れた。
ゴールまで残り20メートル。優吾はあえて、組織が用意したかのような不自然なパスコースを無視し、最もマークの厳しい中央へと突っ込んだ。
工作により消極的になっていたディフェンダーたちが、本能的な危機感からか、今度は殺気を持って優吾を潰しにかかる。
背後からの激しいスライディング、ユニフォームを引き裂かんばかりのホールド。だが、イタリアの激闘で鍛え上げた優吾の体幹は微動だにしない。
リベリーノが叫んだ。
「ユウゴ!打て!」
一人、二人と相手をなぎ倒し、優吾は右脚を振り抜いた。
それは、組織の台本にも、啓吾の予測にもない、純粋な「個」の咆哮だった。
キーパーの手を弾き飛ばし、ゴールネットが千切れんばかりに揺れる。
ハットトリック達成。
優吾はゴールに自らが突き刺したボールを奪い取り、空に向かって咆哮した。
リベリーノが、マクガイヤが、チームメイトたちが次々と彼に飛びつき、歓喜の輪が広がる。スタジアムのティフォジたちが総立ちになり、「ユウゴ!」のチャントがベルリンの夜空を震わせた。
その瞬間、優吾はフットボーラーとして最高潮の、眩いばかりの光の中にいたーーーー
「バタン、バタン、バタン」
だが、その歓喜が最高潮に達した瞬間、スタジアムの全照明が突如として消灯した。
一瞬の静寂の後、二万人の歓声は悲鳴へと変わった。
暗闇に包まれたピッチの真ん中で、優吾は呆然と立ち尽くした。そして、その静寂を裂くように、耳元で自分を呼ぶ低い声を聞いた。
「……優吾。そんなに高く登れば、落ちる時の衝撃も大きいだろう?」
それは、紛れもなく異父兄弟・中嶋啓吾の声だった。
「啓吾? 啓吾なのか?」
優吾が凍りついたように声のした方へ振り向いた瞬間、非常用照明が薄暗く灯り、そこには誰もいなかった。
「どうして啓吾が?」
そう言いかけて、周囲を見回すと、数メートル先で膝をつき、顔を覆って震えるカン・ソングーの姿が目に飛び込んできた。
「おい、大丈夫か⁉」
優吾は声を掛けたが、ソングーは何も答えなかった。
答えられるわけがない。ソングーには、スタジアム内の各所に配置された「23」の構成員たちが送る、赤い赤外線ポインターの光が見えていた。
それは、計画を破綻させた駒への「清算」の合図だった。
優吾はまだ知らなかった。自分の放ったゴールが、一人のストライカーの死刑執行書となり、そしてこのベルリンを巨大な監禁室へと変える引き金になったことを。
そして啓吾の、自分に対する底知れない恨みの深さを。




