第39話 銀色の栄光と霧
初陣での劇的な決勝ゴールは、単なるフロックではないことを卯月優吾はすぐに証明してみせた。フィレンツェCCは第5節以降も破竹の勢いで勝ち星を積み重ね、前シーズン10位という体たらくが嘘のように首位争いへと名乗りを上げたのである。
優吾の武器である強靭な体幹と、左右両脚から放たれる正確なシュートは、クラッセA各チームの堅固なカテナチオさえも次々と粉砕していった。
特筆すべきは、三十八歳の大ベテランであるフランシス・リベリーノとの関係の変化だった。当初は優吾を「小僧」と呼び、ポジションを争うライバルとして突き放していたリベリーノだったが、優吾がピッチ上で見せる献身的な動きと、自らのパスを確実にゴールへ繋げる決定力に、次第に厚い信頼を寄せるようになる。
リーグ中盤、リベリーノが負傷で数試合を欠場した際、優吾はワントップとしてチームを支え、一人でハットトリックを含む驚異的な得点を叩き出した。
復帰したリベリーノは、エースの座を静かに優吾へ託し、自らは一列下がって優吾の能力を最大限に引き出す「最高の相棒」へとその役割を変えた。
この「黄金のツートップ」の誕生により、ヴィオラの攻撃陣はクラッセAで最も恐れられる存在となった。
スタンドの一角では、ジャック・グノーがサングラスを直し、不敵な笑みを浮かべていた。彼が密かに計算していた通り、優吾の市場価値は、かつて正富丈晴が提示された1,500万ユーロを遥かに凌ぐ、2,000万ユーロ、2,500万ユーロという異次元の領域へと跳ね上がっていったのである。
最終節前までに18得点を叩き出し、クラッセAでの得点ランキング3位以上を確実にしていた優吾に見合う移籍金であるのは間違いなかった。
ジャックにとっては、かつてオランダのチームとの訴訟で負った負債を清算し、自らのエージェントとしての矜持を取り戻すための最高の逆転劇が進行していた。
迎えた最終節、フィレンツェCCは勝ち点差「2」で首位ミラネーゼを追っていた。勝てば逆転優勝、街全体が悲願のスクデットに期待したが。死闘の末に試合は引き分けに終わった。
勝ち点1及ばず、フィレンツェCCは準優勝でシーズンを終えることとなったが、アルテミオ・フランキを埋め尽くしたサポーターたちは、ピッチに突っ伏し悔し涙を流す優吾に惜しみない拍手を送った。二位という結果は、9月から始まるチャンピオンズリーグ(CL)への直接出場権を手にしたことを意味していたからだ。
優吾がフィレンツェの英雄としてスターダムを駆け上がる一方で、ベルリンの闇はより深く、冷徹にその牙を研いでいた。バイエルン地方の責任者に昇格したマチェックは、ジェルジンスキの信頼を背に、カン・ソングーを「八百長なしの実力」と見せかけた精緻な工作によって、ブンデスリーガの表舞台で躍動させていた。
中嶋啓吾は、自分を軽んじるようになったマチェックを救う気など毛頭なく、ただ冷ややかに次の惨劇を見据えていた。
彼にとって、優吾が華々しい準優勝を飾り、欧州最高峰の舞台へと誘い出されることこそが、自らが仕掛けた「第二の爆心地」への誘導に他ならなかった。
8月29日に、チャンピオンズリーグのグループステージ組み合わせが決定した。フィレンツェCCの対戦相手として、ドイツ1部のシャルロッテン・ベルリナーの名前が読み上げられた。
啓吾にとって、これはこれ以上ない僥倖だった。
最早運命としか言いようがない。
イタリアで「ヴィオラの咆哮」と称えられた優吾の光と、ドイツの闇で偽りの栄光を強いられるソングーの影。二人のストライカーの激突は、もはやフットボールの枠を超え、兄弟をめぐる血塗られた復讐劇の終局へと、運命の導火線に火を放った。
欧州の夜が再び冷え込み始めた9月。
ベルリンのオリンピアシュタディオンの周囲には、霧が深く立ち込めていた。かつて1936年のオリンピックでヒトラーが立ち、ナチズムの喧伝に利用されたその巨大な競技場は、今や「23」による大規模な八百長と資金洗浄の舞台に成り下がっていた。
優吾は、先にベルリンに回送されていたフィレンツェCCのバスから降り、冷たい空気に首をすくめた。
背負っているのは、単なるエースの期待ではない。
イタリアの地で掴み取った「準優勝」という銀色の栄光と、かつて自分を監禁した闇を打ち払いたいという、言語化できない渇望だった。
隣を歩くリベリーノが、優吾の肩を叩く。
「ユウゴ、ここはフィレンツェじゃない。だがな、お前の名前を叫ぶファンはここにもいる。ゴールで黙らせてこい」
スタジアムの裏側、VIPエリアの奥深く。
中嶋啓吾は、最新の監視システムから送られてくるテキストデータを見つめていた。
マチェックが鼻息荒く、
「ソングーのゴールに数百万ユーロがベットされている」
とジェルジンスキに報告している姿が目に入る。
啓吾はそれを見向きもせず、自分の指先を噛んだ。
「お前は高く登りすぎたんだよ、優吾」
啓吾はすでに、マチェックの「仕込み」が露呈し、組織全体がパニックに陥る瞬間を待ちわびていた。
その混乱の中で、自分を騙り、自分から父親の愛をーーたとえそれが歪んだものであってもーー奪い去った優吾という存在を、物理的に、そして社会的に消滅させる算段を整えていた。
一方、観客席には、一般のサポーターに紛れてヴァンサンと北小路誠也がいた。
彼らはサン=ドニでのテロが「捜査の遅延」を狙った精緻な偽装であったことを確信しており、このCLの試合中に発生するはずの「資金移動」をデジタルで捕捉しようと、密かに機材を走らせていた。
北小路誠也が、単なる足を使った捜査員ではないことは、警視庁内ではよく知られたことであった。
かつて彼は、公安部の「サイバーテロ対策ユニット」に出向していた経歴を持つ。
そこで彼が目にしたのは、どれほど指紋を拭き取っても、キーボードの打鍵一つで消し去ることのできない「デジタルの足跡」だった。
「誠也、いいか。肉体は嘘をつくが、パケットは嘘をつかない」
また、そう語っていたのが、かつてパリ市警のサイバー犯罪対策班(BLC)に籍を置いていたヴァンサンだった。
古風な捜査手法ばかりが目立つヴァンサンだが、ヴァンサンは、ハッキングのスペシャリストだ。
だが、彼はデジタルの限界も知っていた。モニターの向こう側にいる犯人を、最後に「現行犯」として組み伏せるには、直感と突破力が必要だった。そして現場への異動を自ら申し出た。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
優吾とソングー。
UEFAの制度に関わらず二人のストライカーは同じピッチで相まみえる運命だった。
しかし、その頃のソングーの瞳には、かつての自分のような情熱はなく、ただ「大切な人」を人質に取られた者の、逃げ場のない絶望が張り付いていた。




