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第3章:同じ戦場、それぞれの戦争②

「まったく……少し見ない間に偉くなっちまったな」


 天幕に入った瞬間、むっとする熱気と紙の匂いが鼻をついた。ハンスは、机に向かって働く幼馴染の姿を見て、懐かしさと少しの寂しさを滲ませた声を漏らす。3年半前、泥と雪の中を並んで走っていた少年は、今や中尉の肩章をつけている。


「言っとくが、中尉になったのは“部隊規模に合わせるため”らしい。軍隊ってのは妙なとこだけ律儀だからな。少尉のままだと規則違反らしいぞ」


 ジークハルトは肩をすくめる。少尉任官直後に、戦時特例を根拠にヴィルヘルムとヘルマンの連名で中尉に昇進させられたのだ。同期たちが小隊(ローゼンベルク軍では30~40名程度)規模しか指揮できないのに対し、中尉なら中隊(150~200名程度)規模まで任せられる――“特務部隊”という名目をつければ、規則上もぎりぎり説明がついた。


 ハンスはその肩章を見つめ、胸の奥でわずかに距離を感じた。しかし、目の前の男の笑い方が昔のままだったので、すぐにその感覚は和らぐ。


 ハンスが連れてこられた幕僚本部の天幕では、ジークハルトたち猟兵隊が襲撃・破壊作戦の過程で得た情報をもとに、共和国軍の兵站能力を割り出す作業が進められていた。そこに増援として着任したソフィアの数学的技能が大いに役立った。


 彼女は猟兵隊の証言から共和国軍の馬車の荷台の寸法を推計し、道幅・車輪径・馬力などから積載量の概算を導き出すと、そこから要塞の補給能力を逆算してみせた。さらに前線兵站部で働いていた経験から、将校向け嗜好品などの品目と量をもとに要塞にいる将校・幕僚の数を割り出し、そしてその配下の兵員数まで推定してみせたのである。


 情報の精度には限界があった。ジークハルトやハンスには数学の知識がなく、またジークハルトの異動後は補給路破壊作戦の頻度が下がったため、最新情報は不足している。それでも可能な誤差を踏まえて全てを統合した結果、導き出されたのは――


 2万5千


 ノッセル要塞に駐留する共和国軍の兵力である。


「2万5千か」


 数字を聞いたヘルマンは参謀たちを招集し、即座に作戦立案へと移った。その声には長らく霧の中にあったものが、ついに形を得た確信があった。


 敵兵力の算定という大成果を上げたソフィアだったが、それでも休もうとはせず、黙々と机に向かい続けていた。


「今は、要塞に何割の兵が常駐してるかとか、どれだけ費用がかかってるかとか……次から次へと仕事を見つけては計算してる。あそこまでいくと、仕事熱心ってより死に急いでるみたいだな」


 ジークハルトが呆れたように言うと、ハンスは「お前も猟兵隊の頃は似たようなものだっただろう」と心の中で突っ込んだ。危険な任務をひたむきにこなすのは、責務というよりも性分によるものだった。


「まあ、あいつが来てくれたおかげで、俺も訓練に戻れる。助かったよ」


「ジークの部隊か。まだ使い物にならないのか?」


「いや、ヴィルヘルムが集めてきただけあって精鋭だ。ただ、場慣れには時間がかかるんだ」


 ジークハルトが任されたのは、強襲・奇襲を専門とする特務部隊だ。近衛軍や中央軍から精鋭を選抜したとはいえ、それだけで実戦力が整うわけではない。訓練を積み、練度を高めるしかなかった。


 机上の戦争と現実の戦争は違う――ヘルマンはそれを『摩擦』と呼んだ。いかなる計算をもってしても、この係数を0にすることはできないのだという。


 では、どう対処するか。


 ヘルマンが教えた答えはひとつ――反復演練による習熟


 行動に慣れ、体が鍛えられ、判断力が研ぎ澄まされる。それだけが摩擦を減らす方法だという。


 学校も教師も嫌いなジークハルトだったが、なぜかヘルマンにだけは素直に教えを乞うことができた。ヘルマンもまた、ジークハルトをどこか気にかける教え子として扱っており、二人は師と弟子という関係に、自然な心地よさを覚えていた。


 ジークハルトは、期待を寄せてくれるヴィルヘルムのため、尊敬するヘルマンのため、強靭な部隊をどうしても作り上げたかった。


「……ハンス。命令ってわけじゃない。お願いだ。俺の部隊に来てくれないか?」


 突然の申し出に、ハンスは目を丸くした。


「俺が? 王子様の“いい子ちゃん部隊”なんて柄じゃねえよ」


「いい子ちゃん部隊じゃない。ヴィルヘルムは……何か企んでるみたいだ」


「だったら余計に勘弁だ。王族のごたごたも、軍に縛られるのもごめんだね」


「じゃあなんで、まだ軍人を続けてる?」


 その問いにハンスは答えられなかった。徴兵の任期はとっくに終わっているのに、なぜか除隊しないまま昇進までしてしまった。答えられない自分に気づき、苛立ちが胸をかすめた。


「……さぁな」


 その時、ジークハルトが静かに言った。


「考えたことはないか? 最高の指揮官の下で、自分の力を発揮して戦いたいって」


 それは、ハンスにとって確かに“理想”だった。猟兵隊の指揮官たちは頼りにならなかった。自分が生き延びられたのは、ジークハルトがいたからだ。


 そして今、その“最高の指揮官”が、自分に頼んでいる。――また一緒に戦ってほしい、と。


「……いいぜ。面白そうじゃねえか」


 思ったより素直に答えが出た。階級差は広がったが、共に育ち、共に戦った戦友であることは変わらない。


「助かる。お前がいてくれると心強いんだ」


「お? なんだ、ジークは俺が恋しかったのか。仕方ねぇなぁ、助けてやるよ」


 気恥ずかしさから視線を逸らしながらも、3年半ぶりに旧友と再会した高揚感が互いの胸を満たしていた。


「じゃあ正式に入隊したことだし、明日から訓練漬けだ」


 ジークハルトは一冊の冊子を差し出した。


「……なんだこれ?」


「数学の教科書だ。うちの部隊では“これを使って戦う”。だから頭に叩き込んでおけ」


「おい待て、俺は算術なんてできねぇぞ!」


「算術じゃない。数学だ。困ったらソフィアに教えてもらえ。大学で数学をやってたらしい」


 ハンスはこの瞬間、ほんの少しだけこの申し出を受けたことを後悔した。

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