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第3章:同じ戦場、それぞれの戦争①

 ソフィア・フォン・ホーエンフェルト少尉は、ローゼンベルク王国東部方面軍の前線兵站部で主計兵として勤務していた。本来、彼女に軍人になるつもりは少しもなかった。しかし、ホーエンフェルト子爵家当主である父が長年の過労で体調を崩し、そのまま帰らぬ人となると状況は一変する。子爵家の長女であったソフィアは、大学を中途退学し、軍隊に入って家族を養い家名を守る道を選ぶほかなかった。


 ローゼンベルクで貴族に生まれた以上、軍人・官僚・地方役人など、いずれかの形で国家に奉仕する義務がある。だが家の跡継ぎである弟はまだ十歳になったばかりで、とてもその役割を果たせない。誰かが代わりを務めるしかなかったのだ。王都ベルデン大学数学科を中退したソフィアには官僚試験の受験資格がなかったため、唯一数学を活かせる職として軍の主計科を選ぶことになった。


 主計科の任務は主に軍の兵站管理である。食料、武器、衣服、医薬品などの調達と補給、その管理と計画立案――どれも高度な計算力が求められる。天職とまではいかずとも、彼女にとっては間違いなく性に合った仕事だった。


 しかし、家族のためとはいえ、全国民の1%にも満たない者しか入学できない大学を迷いなく辞め、さらに望みもしない軍人の道を選ぶほど責任感の強い彼女は、その生真面目さゆえに“融通の利かない規則の鬼”として厄介者扱いされていた。それが仕方ないと理解していても、居心地の悪さは拭えなかった。


 ローゼンベルク王国民は勤勉を自任し、その評価は大きく間違ってはいない。だが勤勉にも限度というものがあるし、誰もが徹底しているわけではない。ソフィアは、そうした人間らしい怠惰を許容できるほど人生経験を積んではいなかった。


「ホーエンフェルト少尉、異動辞令だ。明日よりヴィルヘルム殿下の第101親衛戦闘団へ配属となる。そこでの活躍を期待する」


 辞令書を読み上げる上官は、どこか厄介払いができたとでも言いたげな口ぶりだった。耳にした同僚たちは安堵のため息をついたり、嘲笑めいた視線を向けたりしている。


 ――ああ、追い出されたのだ。


 ソフィアは直感で理解した。彼女はただ職務に忠実であろうとしただけで、波風を立てたいわけでも同僚を見下していたわけでもない。それでも、過剰なほど優秀で勤勉であることは、しばしば歓迎されないのだという事実を、この1年で思い知ったのだった。


 退所する際に持ち出した私物は、大学時代から愛用している計算尺ひとつきりだった。




「ソフィア・フォン・ホーエンフェルト主計少尉、本日付けで着任いたします」


 国境近くに新設されたばかりの基地に到着したソフィアは、着任報告のため司令部へと向かった。そこで迎えたのはまさかのヴィルヘルム王子本人だった。


「よく来た、ホーエンフェルト少尉。大変優秀であると聞いている」


 全てを見透かすような鋭い視線に、ソフィアは胸の内の不安を押し隠せずにいた。「大変優秀」とは、おそらく前任地の上官が報告したものだろう。だがそれを額面通り受け取れるほど、彼女も無邪気ではない。むしろ脳裏をよぎったのは、自分は体のいい厄介払いとしてここに送られただけで、この部隊でも歓迎されていないのではないかという恐怖だった。


 生来の性分ゆえに力を抜くことが苦手な自覚はある。だがそれは処世術で矯正できるようなものではない。


 ――正しい仕事をし続けたい。


 ――けれど、また厄介者扱いされるのではないか。


 胸中で相反する思いがせめぎ合う。


 そんな彼女の内心を知ってか知らずか、ヴィルヘルムは淡々と告げた。


「貴官には期待している。おそらく王国を探しても、この任務をこなせる者は多くないだろう。では早速、職場を案内しよう」


 ヴィルヘルムの後に続き、基地内を進むと、やがて大きな天幕の前に辿り着く。入口には一人の男が待っていた。


「閣下、彼女が?」


「ああ。ホーエンフェルト主計少尉だ。紹介しよう。彼はシュトラウセン准将。戦闘団の幕僚長であり、貴官の直属の上官となる」


 ヘルマンは優雅に握手を求め、その立ち振る舞いの美しさに、ソフィアは思わず胸をときめかせた。まさに理想とする貴族像そのものだった。これほど整った人物が上官であれば、前任地のような居心地の悪さとは無縁だろうと安堵する。


「では、ホーエンフェルト少尉。案内しよう」


 天幕のフラップが上げられた瞬間、内部から熱気が押し寄せた。『戦闘団幕僚本部』と掲げられた天幕の中では、大勢の軍人が大量の書類と巨大な地図に向かい、忙しなく動いている。活気があると言えば聞こえはいいが、軍隊風に表現するなら“事務の戦場”であった。


「フォルラート中尉、彼女がホーエンフェルト少尉だ。助力を乞うといい」


 灰色の髪の小柄な軍人――ソフィアよりはわずかに背が高い――が、地図への書き込みを中断して顔を上げた。


「ジークハルトだ。よろしく」


「あ、ええ……ソフィアです。よろしくお願いします」


 下の名での挨拶につられ、ソフィアも同じように名乗ってしまったことに、後から気づいて赤面する。しかしジークハルトは気にする様子もなく「よろしく、ソフィア」とあっさり返した。小さな村で猟師として育った彼は、苗字で人を呼ぶ習慣が薄く、ほとんどの相手を名前で呼ぶのだという。


「それで、小官の任務とは何でしょうか?」


 気を取り直し、階級では上だが年下であろう中尉に問いかける。


「任務は、ノッセル要塞の補給状況を解明することだ」


「要塞の……何の補給状況ですか?」


「全部だ」


「……え?」


 あまりにあっけらかんとした答えに、ソフィアは言葉の意味を理解できず間の抜けた声を漏らす。


「だから全部だよ。要塞に運び込まれる食料、弾薬をはじめ、どれだけの貯蔵と継戦能力があるかを計算で割り出す。お前にはその技能を使って計算してもらう」


 あまりに途方もない任務に、ソフィアは呆然とした。新設部隊の経費や補給管理といった事務仕事を任されるものと思っていたのだ。まさか敵要塞の兵站能力を数学で解き明かせと言われるとは。


 しかし、天幕内を見渡せば、その無理難題に説得力を与えるように、皆が苛烈なまでの集中力で働いていた。


 任務を告げられた瞬間、ソフィアの胸に湧き上がったのは、大学で課された解けない問題に挑むときのような絶望的な労力を予感させる疲労と、不完全燃焼のまま燻っていた自身の能力をついに存分に振るえるという高揚感だった。

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