第5章:忠実なる警告者②
「――陛下にご報告なさったほうが、よろしいかと」
そう、エリックの耳元で囁いたのはモルゲンフェルスであった。
「そう性急にならないでください、モルゲンフェルス局長。これまでも、対話を重ねることで回避できた争いはあったはずです」
内務省保安監察局――いわゆる“秘密警察”の長であるモルゲンフェルスの進言を、エリックは即座には採用しなかった。
蛇のように強欲で、計算高く、そして非道な手段を厭わない男。エリックは、彼のそうした性質を決して好んではいなかった。だが同時に、これまで幾度となく彼に救われてきたことも、否定しようのない事実である。
エリックがその人柄と人望によって“表”の統治を成し遂げてきたのだとすれば、モルゲンフェルスは冷酷かつ非情な手段で“裏”の役割を担ってきた人物であった。
占領地における反乱分子や不穏分子の摘発と無力化――それを職務としてきた彼は、今回の旧正統ルガルディア帝国領の編入においても、顕著な成果を挙げている。
たとえその過程で私腹を肥やしていようとも、「多少なら見逃せ」と皇帝ヴィルヘルムから許可が出る程度には、有用な人材であった。
そしてモルゲンフェルス自身も、エリックという人物をよく理解していた。彼が冷酷で非道な手段を選ぶことに躊躇する男であることは、長く部下として仕えてきた以上、痛いほど分かっている。
だが、それによって彼に取って代わろうと考えたことは一度もなかった。
エリックの統率力は本物であり、その存在によって内務省は円滑に機能している。そして、自分が雑事に煩わされることなく、抜け目ない計算のもと純粋な利益追求に専念できるのも、エリックという“表の顔”があってこそだと理解していたからである。
ゆえにモルゲンフェルスは、これまでエリックに明確な反抗の意思を示したことはなかった。今回もまた、その範疇に収まる――少なくとも、その時点ではそう確信していた。
それ以上の言及は控え、彼は潔く引き下がった。
『フロリアン・フォン・リュッケン』という名を、次なる標的の一覧に静かに加えながら。
しかし、その強欲で冷徹な思惑があったからこそ、モルゲンフェルスは事態の急変に、誰よりも早く気づくことになる。
それもまた、悲しいかな、紛れもない事実であった。
「……陛下のお気持ちも、変わらず、か」
エリックは、即座に返ってきた電信の文面を前に、しばし言葉を失った。
モルゲンフェルスの進言を受け、エリックは事の全貌とまではいかぬものの、問題の概要をぼかした形で報告し、あわせて今後の方針について自身の見解を添えて、皇帝ヴィルヘルムの考えを問うたのである。
帝国主要地域に広く普及した電信網によって、遠く離れた地からでも即座に帝都ベルデンへ連絡を取れるようになった。その利便性には、エリックも素直に感心していた。だが同時に、そこに伴う情報量の限界には、どうしてももどかしさを覚えずにはいられなかった。
対面であれば、空気や表情、そして何よりも真摯に紡がれる言葉によって、互いの意思を深く理解し合うことができる。それこそがエルンストが重視してきた、直接会って語る交渉の真価であり、その効果は想像以上に大きい。
しかし電信ではそうはいかない。長文は回線に負荷をかけ、解読にも時間を要する。結果として、やり取りは端的な文言や符号化された表現に収斂していく。
『現状の方針に変更なし』
返ってきたのは、たった一文だった。
それでもエリックは、どうしても悩まずにはいられなかった。ヴィルヘルムが事態を軽視し、強権的な政策を無条件に肯定しているわけではないことは、これまでの関わりから察している。皇帝自身もまた、熟考の末にこの判断に至ったのだろう――それは理解できる。
それでもなお、エリックには、このまま現状を見過ごすことができなかった。
「やはり……陛下に直々にお話しした方が……」
幸いなことに、エリックが帝都ベルデンを離れ、この地に赴任しているのは、皇帝と直接会うことが可能な距離圏にある職務を命じられているからに他ならない。実際、ヴィルヘルムと対面で話す機会は、望めばすぐにでも設けられる状況にあった。
だからこそ――その前に、どうしても会っておくべき人物がいる。
エリックは、迷いを振り切るように馬車へと乗り込んだ。
「西方軍警予備隊駐屯地司令部まで、頼みます」
御者にそう告げると、馬車はゆっくりと動き出し、近隣に設置された駐屯地――フロリアン・フォン・リュッケンのもとへと向かっていった。




