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第3章:コンプレックス②

「シュトラウセンよ、具合はどうだ」


「はは……陛下御自らお見舞いにお越しくださったというのに、悪いはずがございません」


「その言葉どおりであれば、どれほど良かったものか」


 ヴィルヘルムは“大シュトラウセン”――すなわちヘルマン・フォン・シュトラウセンのもとを訪れていた。体調を崩した彼の見舞い、というのが表向きの理由である。しかし実際には、ヘルマンは極めて人に会うべきではない状態にあり、周囲の者たちは見舞いすら控えるよう、再三にわたってヴィルヘルムを説得していた。その理由は、残酷なほどに明白であった。


「ゲホ、ゲホ……」


 湿り気を帯び、肺の奥から絞り出されるような咳とともに、わずかな血が口元に滲んだ。


 ヘルマンは『結核』を患っていた。


「医師は、回復に向かっていると申しておりますが」


「気休めを言うな。見れば分かる。貴官のその痩せ細り、青白い顔こそが何よりの証拠だ」


 この時代において結核は、不治の病とされ、有効な治療法は存在しなかった。病原の詳細こそ未解明であったが、空気感染することや進行の経過については経験的に知られていた。そうした知見を踏まえれば、一国の主であるヴィルヘルムが直接見舞いに来るべきではなかったし、ヘルマンの病状がすでに引き返せぬ段階に達していることも、容易に想像がついた。


「いやはや……情けない話ですな。まさか結核に罹るとは」


 結核への感染自体は、決して珍しいことではない。症状の軽いものは体調不良として見過ごされ、風邪の一種と扱われることすらある。発症に至る者は感染者の一部にすぎない。だが、発症すれば、発熱や倦怠感を経て、やがて咳や喀血といった顕著な症状が現れる。ヘルマンは、すでにその末期にあった。


「単刀直入に聞く。……あと、どれほどもつ」


「そうですな……」


 ヘルマンは遠くを見るような目をし、驚くほど落ち着いた様子で、自らに残された時間を告げた。


「良くて1年。精々、数か月といったところでしょう」


「……そうか」


 覚悟していたとはいえ、具体的な数字を突きつけられると、ヴィルヘルムの胸にも重くのしかかるものがあった。


「本当は、ジークハルトも来たがっていたのだ」


「ほう、フォルラート大佐が」


「意外でもあるまい。あいつは貴官を慕っていた。それこそ“先生”と呼ぶほどにな」


 だが、この場にジークハルトの姿はない。彼は帝国東部・旧カルノヴァ地域での反乱鎮圧任務を命じられ、すでに現地で作戦行動に入っていた。そして彼には、ヘルマンが結核を患っていることすら知らされていない。余命幾ばくもないと知れば、任務を放棄してでも駆けつけるだろう。それほどまでに、ジークハルトはヘルマンを敬愛していた。


「それは……良い部下、いえ、教え子を持ちましたな……」


「ジークハルトだけではない。私も含め、貴官に師事した者は帝国軍に数多くいる。彼らが動揺することを思えば、事の次第を伏せるのもやむを得ぬが……」


 それは同時に、あまりにも残酷な決断でもあった。帝国軍を築き上げた主柱を失うという事実が知れ渡れば、動揺は瞬く間に広がるだろう。帝国の土台を完成させねばならぬ、この重要な時期にそれが起こることは、何としても避けねばならなかった。たとえ、彼を慕う者たちが生前に会うこと叶わずとも、その方針は貫かれるべきだった。なぜなら、帝国はいま、極めて重要な局面にあったからだ。


「ご心配には及びますまい。帝国陸軍となった我らの軍には、陛下が見出された人材が揃っております。やがて未来を担う若者たちが育ち、次々と表舞台に立つ――その光景が、小官にははっきりと目に浮かびます」


「確かにそうだ。血筋や生まれではなく、才能と意志、そして、実力によって、有能な者が相応の地位に上る。それについては、私も心配していない。だが……」


 ヴィルヘルムは、もっとも懸念している点を口にせねばならなかった。


「参謀本部についてだ。貴官の後を継ぐ者に関して、私はいささか不安を拭いきれずにいる」


「……我が愚息、エリアスが何か?」


「現時点ではない。彼はよくやっている。事実、彼の立案した戦略構想と作戦計画は見事なもので、グラウエンシュタイン制圧以降、問題となっていた各地の反乱や蜂起も鎮静化しつつある」


 だが、とヴィルヘルムは言葉を継いだ。


「不満分子を炙り出すために圧迫を強め、武装蜂起を誘発するという手法には、賛否がある。軍事力を過信した、行き過ぎた政策ではないかとな」


 それでもなお、ヴィルヘルムはその構想を承認した。


「帝国は、一刻も早く盤石な体制を築かねばならぬ。もはや“外部勢力”が大人しく傍観してくれると、楽観はできん」


「……サンテルラン、でございますな」


 ヘルマンは、エルデンライヒ帝国最大の仮想敵国の名を、迷いなく口にした。


「そうだ。先の大戦において、正統ルガルディア帝国の領土を武力によって一部併合した彼らが、今後我々の直接的な敵対者となることは疑いようがない。現在は沈黙しているが、エルンストを通じて外交的な打診を何度か行っても、明確な返答は得られていない。これはつまり――」


「サンテルランの内部で、何かが起きている……ということでしょう。すぐには我々を攻撃できないほどの、のっぴきならない事情が……」


「私もそう読んでいる。先の内戦を終結させ、いま王位に就いている国王は健在だ。しかし、その統一された意志の下にあるはずの伝統主義者たちが動けないとなれば、内部で政治的な動乱が起きている可能性を考慮せねばならぬ」


 要するに、ヴィルヘルムらが真に恐れているのは、サンテルラン現政権そのものではなかった。現国王ルイ12世は、すでに20年以上王位を保持しているが、軍事的冒険に打って出るような人物でないことは、これまでの振る舞いから明らかである。たとえ正統ルガルディア帝国が崩壊し、その実質的盟主であったエリザーベトが死去したとしても、それを契機に現状打破へ動くとは考えにくかった。


 しかし、その体制が揺らぎ、新たな君主、あるいは内戦の一因であった自由共和制勢力が急激な政変の末に権力を掌握した場合、彼らがどのような突発的行動に出るかは予測できない。


 シャルル騎士王の没後、その存在感は薄れたとはいえ、伝統的な大国サンテルラン央王国への備えは、今のエルデンライヒ帝国にとって最重要課題であった。そのためには国家体制を盤石にし、内部の反乱分子を早急に一掃する必要がある――それはやむを得ぬ判断でもあった。


 それさえ果たせば、エルデンライヒが正面からサンテルランと対峙しても敗れることはない。少なくとも、誰もがそう信じていた。


 だが――


「そこで、貴官の不在は痛手だ。帝国陸軍の精神的支柱を失うことになるのだからな」


「陛下……それは、いささか大袈裟に過ぎます……」


「いや、貴官は自身の価値をもっと正しく認識すべきだ。貴官が参謀総長として立っているからこそ、参謀本部も軍上層部も結束一致し、その戦略と作戦に信を置いて戦える。しかし――」


 ヴィルヘルムは、ためらいなく残酷な事実を告げた。


「貴官の息子、シュトラウセン少将には、その代わりを務める器量がない。能力がないと言っているのではない。長としての適性が欠けているのだ」


 エリアスが優秀な作戦参謀であり、作戦局長として数々の成果を挙げてきたことは紛れもない事実である。だが、それはエリアスが立案し、ヘルマンが命じたからこそ軍全体が納得したのであって、エリアス自身が立案し、命ずることで同じ結果が得られるとは限らない。


 この点こそが、エルデンライヒという国家が、いまだ属人的な才能と資質への依存を完全には脱却できていない証左であった。ヘルマン亡き後、エリアスが後継者となっても、同じようにはいかない。その未来は、火を見るよりも明らかであった。


「陛下……一つ、よろしいでしょうか……」


 その現実を受け止めたうえで、ヘルマンは静かに自らの見解を述べた。


「確かに……エリアスには将たる器量に欠ける部分があります……おそらく、総司令官として一軍を率いる役目には向いていない……」


 その点については、ヘルマン自身も理解していた。しかし、それでも彼を作戦局長とし、己が不在となった今、参謀総長代行の地位を与えているのは、決して身内贔屓によるものではなかった。


「ですが……私も、エリアスと同じ年頃には……宮廷幕僚として閑職に甘んじておりました……そして、陛下に拾っていただき……今の地位に至ったのです……」


 ヘルマンは、もはや袖を通すことの叶わぬ軍服を指さし、途切れがちな息のまま続けた。


「いまは『上級大将』などという仰々しい階級章をつけておりますが……それも、ここ数年で得たに過ぎません……私が、今のエリアスの階級に就いたのは……つい5年ほど前のことでした……」


 咳き込みながらも、まるで命を削るかのように、彼は言葉を紡ぐことをやめなかった。


「ですから……陛下……どうか……小さな苗木を見て……大樹にはならぬと……お決めにならぬよう……」


「もうよい、シュトラウセン。よく分かった」


 ヴィルヘルムは、完全には納得していなかった。それでも、これまで帝国を支えてきた名参謀であり、多くの者に慕われる教育者でもあるヘルマンの言葉を、無碍に退けることはできなかった。


「しかと療養せよ。貴官が舞台を退くには、まだ早すぎる」


 その言葉だけを残し、ヴィルヘルムはヘルマンの寝室を後にした。


「……いいえ……陛下……小官は……もはや……老兵にございます……」


 ヘルマンは、誰に向けるでもなく、うわ言のように呟いた。


「後進に……道を……譲ることこそ……小官の……最後の――」


 続く言葉は、血を伴う激しい咳に遮られた。


 奇妙なことに、ヘルマンが体調を崩してから床に伏すまでの間、彼の周囲から結核患者は一人も出ていない。隠蔽されたのか、認知されていないだけなのか、あるいは発症していないのか――それは定かではない。ただ、まるで病魔が彼一人を狙い定めたかのように、ヘルマンは静かに舞台袖へと引きずり込まれていったのである。

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