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第2章:砲兵令嬢の結婚事情⑦

「「……」」


 一日の仕事が終わり、夜も更けた頃。


 普段なら酒場で杯を重ねていてもおかしくない時間帯に、ジークハルトとシャルロッテは揃って所属部隊の宿舎の一室にいた。


 この建物には他にも同僚や部下が住んでいるというのに、今夜に限っては、まるで息をひそめたかのように静まり返っている。その沈黙が、二人の間に横たわる空気をいっそう際立たせていた。


「……なんか飲むか。酔いが回らないと話しづらいな……」


「禁酒令出したの、ジークじゃない……」


「……そういえば、そうだったな……」


「「……」」


 会話が、まったく続かない。


「今度の出撃は東方だったな。その頃には雪も解けてるだろうし、行軍も少しは楽になるといいが」


「……そうね」


「「……」」


 事務的な話ですら、すぐに途切れてしまう。


 呼び出したのはジークハルトの方だというのに、話を広げるきっかけをどうにも見つけられずにいた。先ほどから、ずっとこの調子である。


 それでもシャルロッテは席を立たず、彼の隣に座っていた。


 部屋には椅子が一つしかなく、いつもの流れでベッドに腰かけたのだが――結婚話が持ち上がってから、どうにも以前と同じ距離感ではいられず、二人はいつもより間を空けて座っていた。互いに、それを意識せずにはいられなかった。


「……ねぇ、ジーク」


 沈黙を破ったのは、シャルロッテだった。


 話題に困っていたジークハルトは、それ幸いとばかりに顔を向ける。


「なんだ、シャルロッテ?」


「今度の反乱鎮圧任務、ジークには残っていてほしいの」


 唐突な言葉だった。


「……は?」


「行き先は、パルミラートも含むカルノヴァ東部地域でしょ。……もう、アンタにあんな顔してほしくない」


「……大丈夫だ。もう吹っ切れた。あの時は心配かけたな。もう平気だ――」


「アンタ、嘘つけないんだから。そういう強がり、やめなさい」


 シャルロッテは、そっとジークハルトの手首を掴んだ。


「ドキドキしてる。脈、速いじゃない。これで“大丈夫”なわけないでしょ、ジーク」


「……それは、お前に掴まれてるからだ。意識するだろ」


 誤魔化すように、つい口を滑らせてしまった。


 普段なら、あり得ない言い訳だ。兄妹のように取っ組み合いをしてきた間柄である。今さら触れた程度で動揺するなど――そのはずだった。


「俺だって、本当はお前に戦地に行ってほしくない。……お転婆できる年でもないだろ。そろそろ落ち着いてもいいんじゃないか」


 反射的に、そんな言葉が出てしまった。


 いつもなら、「女の年齢を茶化すなんて最低!」と拳が飛んできてもおかしくない。だが――


「……ジークも、そう思うの? 女である私は戦地に出るべきじゃなくて、家庭を守るべきだって」


 返ってきたのは、静かな問いだった。


「お前、俺との結婚の話を真に受けてるのか?そんな意味じゃ――」


「じゃあ、どういう意味なの?」


 シャルロッテは、まっすぐに彼を見た。


「私と結婚しないのに、私を気遣う理由、ある?」


 完全に調子を狂わされた。


 いつものように取っ組み合いでうやむやにし、翌朝には何事もなかったかのように振る舞う――そのやり方が、どれほど楽だったかを今さら思い知らされる。


「……本当は、お前が一緒に戦ってくれると助かる。心強いし、頼れる仲間だと思ってる……」


「じゃあ、私が仮にジークの奥さんになったらどう?」


 間髪入れずに、問いが重なる。


「それでも、戦地に行くことに賛成してくれる?」


「それは……」


 前提条件が、あまりにも重い。


 誤魔化すこともできた。それでも――


「……」


 黙って見つめてくる、その澄んだ瞳が、それを許さなかった。


「……答えは同じだ。お前がいてくれると助かる。確かに、安全な場所にいてほしい。でも――」


 震える手で、ジークハルトはシャルロッテの手を握り返した。


「お前と一緒なら、頑張れるんだ」


 それは、今まで口にしたことのない、だがずっと胸の奥にあった感謝に裏付けされた本心だった。


「……そう」


 シャルロッテは身体一つ分、彼に近づき、その頭をそっと胸元に抱き寄せた。


「私もアンタが心配よ。正直、軍人なんて向いてないと思ってる。アンタは優しいから、もっと別の役目があるとも思う」


 一拍置いて、続ける。


「でも――アンタほど、ヴィルヘルム陛下のお役に立てる人もいない。アンタだって、やりたいことがあるんでしょ?」


 シャルロッテは、彼がなぜ軍人であり続けるのかを、言葉にされずとも胸の奥で感じ取っていた。


「ああ……そうだ」


 ジークハルトの視界が、滲んだ。


「ヴィルヘルムと一緒に、世界の果てを見てみたい」


 きっとそれは、猟師としてローゼンベルク王国東部の山岳地帯に生きていたなら、決して思い描くことのなかった“夢”だった。


 歴史の上では、たった一つの一族――いや、たった一人の人物から始まった壮大な理想。


 千年もの間、誰一人として成し得なかった、人類最大の野望。


 『世界の果て』、すなわち――


「“ルガルディア大陸の再統一”。それが、俺とヴィルヘルムの夢だ」


 これから成し遂げられていく、果てしなく長い旅路。


 そこへ足を踏み入れた野心家たちの、覇道。


 ジークハルトという男が、生涯をかけて――


 たとえ自身の我儘を貫き通すことになろうとも、それでもなお見たいと願った景色。


 それこそが、まさしくこの夢だった。


「……そっか」


 シャルロッテは、静かにそれを受け止めて――


「じゃあ、私にも手伝わせなさい、その夢。アンタぶきっちょなんだから、私の助け、必要でしょ?」


 くしゃくしゃとジークハルトの灰色がかった髪を揉みくちゃにしながら、シャルロッテは久しぶりに見せる屈託のない笑顔を輝かせた。その反応こそが、何よりもジークハルトの救いだった。


 妹――というには、彼自身に実の妹がいるため正確ではないが、それに近い距離感で続いてきた腐れ縁の異性の戦友。その支えが、今はただただ嬉しかった。


 これまでとは違う距離感で、これまで以上に深く繋がった気がした。それは確かに、ジークハルトの中でシャルロッテという存在の位置が変わった瞬間でもあった。


 ――だからかもしれない。


 今まで意識してこなかったものに、否応なく意識が向いてしまったのは。


「……お?」


「わりぃ……」


「なあに?やっぱり、ジークも“男の子”だったってことね」


 これまで意識することすらなかったシャルロッテの体温や柔らかさ、近すぎるほどの距離で感じる匂いを否応なく自覚した瞬間、ジークハルトの身体は思考を追い越して反応していた。


 それは理性では抑えきれない、戸惑いとともに込み上げる熱を孕んだ衝動だった。


「悪い、そんなつもりじゃ……」


「そんなつもり、ないの?」


 からかうように顔を寄せられ、心拍数がさらに跳ね上がる。


「いいわよ。でも、それなら……ジークから来てほしいな」


 そう言って、シャルロッテは上半身をベッドに預け、挑発するような視線を向けた。


 それが妙に癪に障り、ジークハルトはその視線を受け止めるように、彼女に覆いかぶさった。


「後悔するなよ」


「後悔させないでね」


「なんだと、この……」


 ふと、握り合った手が微かに震えていることに気づく。


「お前……」


「知らなかった?私も“女の子”なんだけど?」


 よく見れば、唇も震えていた。


 瞳には、恐怖と不安、そして期待と愛情が、複雑に入り混じって揺れている。


「……優しくする」


「ええ、お願い……」


 その夜、二人の距離は、これまでの取っ組み合いとはまったく異なる温度を帯びて、静かに零へと収束していった。

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