第1章:言葉は想いの正装④
少し昔の話をしよう。
エルンストが後に妻となるルイーゼと出会ったのは、彼が国政公務学院に通っていた頃のことである。秀才として周囲から一目置かれていた学生時代、彼は同期生であったルイーゼに恋をした。
女性が学院に通い、芸術や学問の世界へ進むことが推奨されていたノイ・ヴィーンにおいて、彼女の存在自体は決して特別なものではなかった。だが、彼女の抱く夢は、どこか周囲とは異なっているようにエルンストには感じられた。
「私は歴史の教師になりたいの」
その言葉に、周囲はさほど関心を示さなかった。教師という職業は確かに尊敬に値するが、それは実務を通じて評価を積み、その経験を後進に伝える段階に至ってから語られるべき夢と見なされていたからだ。学院で学び、そのまま教壇に立つことは、単なる知識の朗読に過ぎない――そう考える者がほとんどだった。
「教師になって、何がしたいんですか?」
周囲の無関心を埋めるように、エルンストは彼女に問いかけた。深い意味のある質問ではなかった。ただ会話をつなぐための、他愛もない一言に過ぎなかった。後に外交官となる彼にとっては、準備運動にもならない程度のやり取りのはずだった。
「未来に、希望をつなげるためよ」
あまりにも率直な答えに、エルンストは思わず言葉を失った。
「……過去を紐解く歴史を教えて、未来に希望をつなげられるんですか?」
ありきたりで、幼稚とも言える問いだった。本来なら、彼女自身がすでに幾度となく向き合ってきた問いであるはずだ。
「ええ、もちろん」
ルイーゼは迷いなく、そう断言した。
「歴史は過去の堆積よ。人々の営みが折り重なって、少なくとも千年は続いてきた。なら、その中で私たちが思いつくような考えに、誰かが一度は辿り着いているはずでしょう?」
微笑みを浮かべながらも、彼女の声は真剣だった。
「それが今に残っていないのなら、理由があるの。やり方が間違っていたのかもしれないし、構造的に不可能だったのかもしれない。あるいは、その時代に早すぎただけかもしれない。歴史は、それを教えてくれるのよ」
彼女は一息置いて、続けた。
「だから、最新を誇る私たちは学ばなくちゃいけない。同じ失敗を、理由も知らずに繰り返したら、後世にも先人にも笑われてしまうもの」
その言葉は、理想に恋焦がれていたエルンストの胸を、まっすぐに射抜いた。
「だから私は、未来ある人たちに教える人になりたいの。私たちにはできなかったことを、代わりにやってもらうために。それくらいしないと、胸を張れないでしょう?」
「……人が恋に落ちるのは、大地が引っ張るからではない、か」
「それ、帝国の数学者の言葉よね。……でも、どうして今それを?」
意図が伝わらなかったことに、エルンストは笑った。ルイーゼはきょとんとした表情を浮かべている。聡明でありながら、どこか抜けている――そんな彼女を、エルンストはどうしようもなく愛おしいと思った。
学院を卒業した二人は、それぞれの道を進んだ。エルンストは外務省の外交官に、ルイーゼは母校である国政公務学院の助手に。
多忙な日々の中でも、エルンストはその才覚によって着実に昇進していった。一方、若くして教師を志したルイーゼの道は平坦ではなかった。助手という立場では収入も乏しく、貴族位である実家に頼らざるを得なかったからだ。
無粋を承知で言えば、エルンストはその状況を引き受ける形で、彼女に求婚した。
「ルイーゼ、私と結婚してほしい」
言葉を武器とする外交官にしては、あまりにも直球で、飾り気のない言葉だった。だが、それほど率直でなければ、彼女には伝わらないのではないか――そんな不安がなかったわけではない。
ともあれ、二人は夫婦となった。
エルンストはボレニア侯国やローゼンベルク王国への赴任を重ねる多忙な日々を送り、家を空けることも多かった。その事情を考慮し、ルイーゼは彼の生家であるファルケンヴァルト家に身を寄せることとなった。若い二人のためにと、敷地内には離れが建てられ、そこが彼らの住まいとなった。
一緒に過ごした時間は、一般的な夫婦より少なかったかもしれない。子を授かるまでに5年を要し、その一人息子の成長に、エルンストが十分に関われたとも言い難い。
それでも、彼らは確かに、その家で幸福な日々を過ごしていた。
そして今――
エルンストは、その家の前に、実に1年ぶりに立っていた。
外交官として派遣され、長期間家を留守にしていた時とは、まったく異なる緊張感がエルンストを支配していた。それが、ドアノブに手をかけることをためらわせていたのである。
そして彼は、かれこれ1時間ものあいだ、家の前に佇んでいた。
日はすでに傾き、夕日が家の壁を赤く染めている。辺りは徐々に暗くなりつつあるが、家には明かりが灯っていない。そのことから、ルイーゼが留守であると推測するのに苦労はしなかった。加えて、1時間も玄関前に立っていながら誰とも鉢合わせしないという事実が、その推測をさらに裏付けていた。
「やはり、日を改めよう……」
そう自分に言い聞かせ、逃げる理由を肯定しようとした、その時だった。
「エルンスト?」
背後から、聞き慣れた声がかけられた。
恐る恐る振り返ると、そこには妻ルイーゼの姿があった。そして彼女の腕の中には、2歳にも満たない男の子――息子ノーマンが抱かれていた。
「ああ……ええと……」
この期に及んで、エルンストは何から口にすべきか決められずにいた。帰ってきたと告げるべきか、それともまず謝罪か。聡明であったはずの頭脳は、最適解をまるで導き出せなかった。
口を開けては閉じるだけのエルンストを見て、ルイーゼは最初の一言をこう発した。
「ローゼンベルクでの外交出張は、終わったの?」
困ったように、冗談めかして言う彼女に、エルンストは場違いな返答しかできなかった。
「ああ……今は、エルデンライヒ帝国で働いているよ……」
違う。そうじゃない。
言いたいことは、そんなことではない――
エルンストは、人生でこれほど言葉に詰まったことはなかった。本当に伝えたい想いも、言うべき言葉も、ほかにいくらでもあるはずなのに、それがどうしても口から出てこない。
「あなたがいない間に、ノーマンは一人で歩けるようになったのよ」
そう言って、ルイーゼは男の子を地面に降ろした。ノーマンはとことこと数歩前に進んだものの、すぐにルイーゼの背後に隠れ、エルンストをじっと見つめるだけだった。
それも無理はない。エルンストが息子と共に過ごしたのは、生まれたばかりで離乳も済んでいない頃だけであり、それから1年が経っていた。父親とはいえ、ほとんど見知らぬ成人男性に人見知りするのは当然だった。
息子とはほとんど初対面同然。妻との再会においても、所属する国家も、任されている役職も、年齢に見合わぬ地位も、1年前とはまるで違っている。
そんな状況で、エルンストが不器用ながらも条件反射のように口にできた言葉は、ただ一つだけだった。
「私の名はエルンスト・フォン・ファルケンヴァルト。エルデンライヒ帝国において外務大臣の地位を、皇帝陛下より拝命しております。このたびこちらへ伺いました理由は――」
誰かのために、自身の考えと本心を言葉にして伝える。それが外交官の仕事であり、エルンストはその秀才だった。
だが今の彼は、その力を借りなければ想いを伝えられない、ただ一人の男に過ぎなかった。
「数々の非礼と無礼について、謝罪に参りました。この件に関する非はすべて私にあり、その責任も補償も――」
「ええっと? 結局、何が言いたいのかしら?」
ルイーゼは、こくりと首を傾げた。外交官特有の言い回しに不慣れだったわけではない。彼女自身も国政公務学院で学んだ優秀な人材だ。
彼女が求めていたのは、ただ一つ。エルンストの本音だった。
次の言葉を口にできたのは、意を決したからではない。
変わらず、すべてを受け入れるようなルイーゼの微笑みが、そこにあったからだ。
「……すまなかった。黙って出て行って……置き去りにして……君たちから逃げてしまった……。私のせいで、つらい思いをしただろう……。想像することしかできないが……それでも……」
エルンストがルイーゼの前で涙を流したのは、生涯で三度だけである。
求婚を受け入れてもらった時。
息子ノーマンが難産の末に生まれた時。
そして――
「どうか、もう一度……家族として、君たちを守らせてほしい……」
祖国グラウエンシュタインを離反し、エルデンライヒ帝国の外務大臣として戻り、家族に頭を下げたこの時が、三度目である。
それは歴史書には残らない出来事だ。
だが、歴史を専門とするルイーゼの歴史には、確かに刻まれた瞬間だった。
「じゃあまず、ノーマンにご飯を食べさせましょう。この子、野菜を食べさせるのが大変なの」
「……ああ、喜んで引き受けよう」
こうして1年ぶりに、その家には家族3人が揃った。
少し離れた場所でそれを見守っていたテオドールは、安堵の息をついた。エルンストがいなくなってからも家を守り、帰りを待ち続けたルイーゼの苦労を知る彼にとって、この一家団欒の光景は、それらすべてが報われた証のように思えたのだった。
「……何、笑ってるんだよ。ヴィルヘルム」
ジークハルトは現在、政務のため席を外しているアーデルハイトに代わり、ヴィルヘルムの息子ヴィクトルの子守りを任されていた。やんちゃ盛りで部屋中を歩き回るヴィクトルに、さすがのジークハルトも手を焼かされている。
その部屋には、彼らのほかに父親であるヴィルヘルムの姿もあった。もっとも彼は子守りを完全にジークハルトへ押し付け、机に向かって政務処理に没頭していたのだが――その一瞬、口元を緩ませたのをジークハルトは見逃さなかった。
そんな余裕があるなら少しは手伝え、と言いかけたところで、ヴィルヘルムは理由を口にした。
「エルンストが電信でノイ・ヴィーンから報告を寄越してきた。『万事順調』だそうだ」
「ああ、あいつ今はノイ・ヴィーンだったな。外交交渉が順調なら何よりだ」
「いや、それだけではない」
ヴィルヘルムはそう言って、追伸の文面をジークハルトに見せた。
「……『母は強し。陛下も日々の労いを』。なんだ、これ?」
ジークハルトにはさっぱり意味が分からなかったが、ヴィルヘルムは答えず、ただ苦笑するだけだった。
「なに、いつも通りの外交交渉だ」
少し間を置いて、付け加える。
「もっとも――今回は、私に対する報復とも取れるがな」




