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第1章:言葉は想いの正装③

「エルンスト。貴様にノイ・ヴィーンへの長期赴任を命じる」


 帝都となったエルデンライヒの首都ベルデンへ戻ったエルンストに、皇帝ヴィルヘルムはそう告げた。


「私が……ノイ・ヴィーンに、ですか?」


 普段であれば、二つ返事で了承し、即座に赴任準備に取りかかるエルンストであった。しかし、この命令には、さすがに言葉を失った。


「不満か?」


 有無を言わせぬ口調だった。それでもエルンストは、もっともらしい理屈を並べて反論を試みる。


「陛下。私はグラウエンシュタインにとって、祖国を裏切った離反者にほかなりません。彼らの憎悪や反発を考えれば、私がかの地へ赴くことは、感情面において新たな不和を生むだけかと」


 その理由は、確かに正当なものだった。


 エルンストは帝国盟主大戦に際し、祖国グラウエンシュタインを裏切り、かつての敵国であったエルデンライヒに身を投じた。その結果、エルデンライヒは長らく地域大国として君臨してきたグラウエンシュタインに対し、決定的な勝利を収めることができた。


 だが、それはあくまでエルデンライヒ側の評価にすぎない。グラウエンシュタインから見れば、エルンストの罪は重く、赦されるものではなかった。その自覚があるからこそ、彼はこの赴任に躊躇せざるを得なかったのだ。


 生まれ育った故郷を「かの地」と呼んでしまうほどに、彼の心はすでにそこから離れていた。


 政治的にも、感情的にも、エルンストのノイ・ヴィーン赴任は不適切――そう考える余地は十分にあった。しかし、ヴィルヘルムはその点を意に介す様子もなく、淡々と言い放つ。


「不安であれば護衛をつけよう。近衛師団でもよいし、現地のグラウエンシュタイン駐屯部隊でもよい。なんなら、我が頼もしき機動戦闘団でも構わん。好きなものを選べ」


 安全面について、ヴィルヘルムは逃げ道を完全に塞いできた。いずれも護衛としては十分すぎる戦力であり、敵意に満ちたノイ・ヴィーンにおいても、エルンストの身を守るには不足はない。


 だが、エルンストが抱えていた懸念は、そこではなかった。


「エルンスト。貴様にも、故郷で解決せねばならぬことがあるのではないか?」


 見透かすようなヴィルヘルムの視線が、まっすぐにエルンストを射抜いた。


「陛下、私はもはや国母様の配下ではございません。あのお方に対する罪の意識など――」


「そうだな。かつて仕えた主に関しては、それでよかろう」


 ヴィルヘルムは言葉を遮る。


「だが、家族のことはどうだ?何一つ、解決していないではないか」


 指摘されたのは、まさにその一点だった。


「家族を連れてこい、エルンスト。和解し、頭を下げ、そして――今の貴様の働きを見せて、認めさせるしかあるまい。それ以外に、貴様が抱える罪の意識を拭う術はない」


 もはや交渉の余地はなかった。


 ヴィルヘルムの有無を言わせぬ命令に、エルンストは今度こそ、渋々ながら頷くしかなかった。




 正統ルガルディア帝国崩壊の直接的な引き金となった帝国盟主大戦ならびに五十日間戦争によって、グラウエンシュタイン大公国はエルデンライヒ帝国――当時はエルデンライヒ大同盟――に決定的な敗北を喫した。その結果、国土と政治的権威はエルデンライヒに帰属することとなった。


 グラウエンシュタイン軍の主力は激戦地アルトグレーツで壊滅し、首都ノイ・ヴィーンの抵抗勢力であった首都守備隊も、もはや実効的な戦力を失っていた。大国屈指の大都市であったノイ・ヴィーンは、敵軍の砲火の射程内に収められ、挽回の余地は完全に断たれていたのである。


 長らくグラウエンシュタインの実質的支配者として君臨していた女主人エリザーベトは、エルデンライヒに無条件降伏し、正統ルガルディア帝国の正統性の象徴であった帝冠をヴィルヘルムに授けた。それによって、グラウエンシュタインがエルデンライヒに完全に組み込まれる未来は決定づけられた。


 そしてその日、長年にわたり帝国を一身に背負ってきたエリザーベトは、自室で毒酒を仰ぎ、自ら命を絶った。


 それは、旧正統ルガルディア帝国勢力が結束してエルデンライヒに抗うための旗頭を、完全に失った瞬間でもあった。帝国摂統であったオットー3世は戦争責任を問われ、帝都ベルデンに拘留されている。次なる後継者と目されたエリザーベトの孫、マクシミリアンもまた、政治的野心に乏しい人物であった。


 反エルデンライヒ勢力が彼を担ぎ上げようと画策したものの、マクシミリアンはそれに与しなかった。溺愛する妻との生活が保証され、ノイ・ヴィーン暫定市長という表向きの地位を与えられたことに満足し、彼はエルデンライヒに対して従順な姿勢を取ったのである。


 彼は捲土重来や祖国復興、肉親の仇討ちよりも、自身と妻の穏やかな生活を選んだ男だった。だがそれは、彼が取るに足らない愚君であったことを意味しない。


 市長となった彼は、エルデンライヒの支配下にあっても、ノイ・ヴィーン市民の既得権益の維持を強く求め、それを実現させた。また、政治的野心に乏しかったことがかえって市政の円滑化をもたらし、舞台女優であった妻の影響もあって、芸術と学問の振興に力を注いだ結果、ノイ・ヴィーンはルガルディア大陸、ひいてはエルデンライヒ帝国における文化的聖地としての地位を確立するに至った。


 その意味において、マクシミリアンは紛れもなく“名君”であった。


 さて、そのような体制が整いつつあるノイ・ヴィーンにおいて、エルンストには一つの大きな心残りがあった。


 ――家族である。


 彼の家系は、グラウエンシュタインでも指折りの名門貴族であり、彼自身も妻帯者で、息子が一人いた。しかし、帝国盟主大戦のさなか、エルデンライヒへ亡命する際、エルンストは家族を伴わなかった。


 理由はいくつかあった。単身であった方が亡命は確実であったこと。万が一、計画が失敗したとしても、家族だけは故郷に残しておけば無事でいられる可能性が高かったこと。そして何より、すべてを自分一人の我儘として引き受けようとしたことだ。


 すべてがうまくいき、再びノイ・ヴィーンへ戻ることができたなら、その時こそ妻子を迎えに行く――そう決めていた。だが現実には、亡命から1年以上が経っても、彼は自宅の敷居をまたいでいなかった。


 理由はいくらでもつけられた。しかし、真実は単純だった。


 ――怖かったのだ。


 自分の裏切りを、一族はどう受け止めているのか。自分のせいで、家族が周囲から迫害を受けてはいないか。そして何より、置き去りにされた妻が、自分をどう思っているのか。


 それらと向き合うことを恐れ、エルンストは仕事に没頭した。幸い、やるべきことは山のようにあった。しかしついに、逃げ道は塞がれる。


 ヴィルヘルムの命によって、彼は家族との和解を強制され、こうしてノイ・ヴィーンへ戻ってきてしまったのだ。


「……案外、戦前と変わっていませんね」


 帰郷して、エルンストが最初に口にしたのは、そんな陳腐な感想だった。


 街並みは戦争の爪痕すら感じさせぬほど整っており、人々の表情も占領地特有の陰鬱さを帯びてはいなかった。確かに、かつてのような特権階級の繁栄は影を潜め、労働者の姿が目立つようにはなっていたが、それはむしろ健全な国家の姿とも言えた。


 彼に課せられた任務の一つには、かつてグラウエンシュタインによって半世紀にわたり過酷な占領政策が敷かれていたサルヴィア地域の処理も含まれていたが、その対応は予想外に容易であった。


 それは遺恨を解消し、莫大な補償を支払ったからではない。


 グラウエンシュタインという国家が消滅したことで、サルヴィアとグラウエンシュタインの政治的問題そのものを、曖昧化したからである。


 ヴィルヘルムは、対グラウエンシュタイン戦争を有利に進めるため、同国の支配地域であったサルヴィアに対し、反乱蜂起のための武器や物資を供与し、その鎮圧にグラウエンシュタインの戦力を割かせることに成功した。結果として、グラウエンシュタインはサルヴィアの大反乱を鎮圧できぬまま敗北し、国家として地図上から姿を消した。


 だが、そこで浮上したのがサルヴィア地域への補償問題である。半世紀にわたり、強制労働や徴兵、性的搾取を伴う民族浄化政策といった非人道的行為が横行していたため、サルヴィアの人々の不満は極めて根深く、和解と補償は避けて通れない課題と見なされていた。それは本来、膨大な労力を要する大仕事となるはずだった。


 しかし、ヴィルヘルムは偉大ではあったが、慈悲深い統治者ではなく、清廉ではあったが、それ以上に老練な政治家であった。彼はサルヴィアへの補償義務が、グラウエンシュタイン大公国を併合したエルデンライヒ帝国にあることを明言し、その責任を確約したうえで、補償の内容と対象は『サルヴィア地域の代表者』との交渉によって決定すると布告した。


 これが実に巧妙だった。


 サルヴィア地域は、グラウエンシュタインによって一括統治されていたとはいえ、その内実は多民族による寄り合い所帯であり、解放の瞬間から主導権争いを避けられない構造を抱えていた。加えて、占領期における地域ごとの待遇差、ヴィルヘルムが仕組んだ反乱支援における武器供与の偏り、さらには本来なら憎むべきグラウエンシュタイン人の血を引く上級民か否かといった不毛な内輪揉めが事態を加速させた。


 彼らが決して一枚岩ではないこと、そして“地域の代表”という地位を巡って争いが生じることは、歴史が繰り返し証明してきた事実でもある。その結果、サルヴィアは占領から解放された瞬間に、同地域内部の主導権争いへと移行し、残された武器がその燃料となって、紛争は燃え続けた。


 結果として、補償責任を果たすと明言しているエルデンライヒと、建設的な交渉を行える相手は現れなかった。サルヴィアの代表者を名乗る者たちが求めたのは、半世紀にわたる過酷な占領政策への補償ではなく、さらなる武器の供与であった。


 それは、政治というものの物寂しさを象徴する出来事でもあった。ヴィルヘルムはこの帰結を予期し、そうなるように仕組み、そしてそれが継続するよう促進したのである。サルヴィアを分裂した紛争地帯として固定化し、一体化した敵対勢力とならないようにすることで、エルデンライヒ帝国に接する国家を可能な限り減らす――それは、優れた政治的洞察と、冷酷な判断の帰結であった。


 結果として、エルンストの仕事は想定よりも早く終わった。


 かつて彼らを虐げていたグラウエンシュタイン人が、武器の供与を求めるサルヴィア人を相手にするのは皮肉なことではあったが、ともかく、彼がノイ・ヴィーンで果たすべき公的な役目はすべて終わってしまったのである。


 それは同時に、彼がもっとも避けてきた問題と向き合わねばならないことを意味していた。


「エルンスト。お前は、家に帰るべきだ」


 ノイ・ヴィーンで戦後処理にあたっていた父テオドールにそう告げられたとき、エルンストはついに覚悟を決めた。


「母さんもそうだが……ルイーゼに会え。ノーマンにもな」


 それは、彼の妻と、息子の名だった。

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