第1章:言葉は想いの正装①
大陸暦1275年――それは、エルデンライヒ帝国が対外戦争を行わなかった年である。
無論それは、内部の問題を整理し、体制を盤石なものとするための準備期間であり、同時に帝国内に生じた諸課題へ対処するための時期でもあった。
そしてまた、その帝国を築き、そこに生きる者たちが人間である以上、人間らしい私的な営みが繰り広げられる時間でもあった。
人々がそれらに時間と精力を注ぎ、穏やかな日常の安寧を享受できたのは、ひとえに“外部からの脅威”を一時的に退けるため尽力した者たちがいたからにほかならない。
その一人こそが、エルデンライヒ帝国外務大臣に任命されたエルンストであった。
「アーベントマルク卿。ご領地をお託しになるのであれば、エルデンライヒへの帰属こそが最適にございます」
「……とは言うがな、ファルケンヴァルト卿。我々にも大公家への御恩があり……」
エルンストは現在、かつて正統ルガルディア帝国を構成していた諸侯のもとを巡り、エルデンライヒ帝国への編入と従属を説得する任に就いていた。
帝国の中核を担うローゼンベルク王国は、先の敗戦の影響により、長らく外務省が事実上機能停止の状態にあった。そのため、経験豊かな外交官はおろか、最低限の実務をこなせる人材すら揃えられていなかった。帝国成立以前はそれほど問題とならなかったが、帝国として新たな歩みを始める以上、外交官の充足は急務であった。
そこで白羽の矢が立ったのが、かつてグラウエンシュタインで外交官を務めていたエルンストである。有能にして慧眼、加えて皇帝ヴィルヘルムの信頼も厚い人物であった。未だ20代という若さではあったが、彼以上にこの職を担える者は当時のエルデンライヒには存在しなかった。かくして彼は、帝国初代外務大臣に任命されたのである。
彼に与えられた任務は明確だった。
他国からの侵略や介入を防ぐため、エルデンライヒ帝国を構成する領土を確定させること。すなわち、旧正統ルガルディア帝国領の諸侯を外交交渉によって説得し、その領土を併合することである。
しかし――いや、当然と言うべきか――その任務は実に手間の多いものであった。
正統ルガルディア帝国は、実質的盟主であったグラウエンシュタイン大公国の降伏によって崩壊した。諸侯たちは指導的大国を失ったものの、主戦場ではなかったことが幸いし、その所領の多くは戦火を免れており、敗北したとはいえ、容易に新たな盟主へ靡くことを躊躇していたのである。
彼らはもっともらしい理由を並べて併合を回避しようとしたが、現実には独立など望むべくもなかった。世界的に見れば彼らは小国にすぎず、エルデンライヒはおろか、サンテルランといった地域大国に対しても単独では抗し得ない。かつては正統ルガルディア帝国という連帯のもとで集団対応が可能であったが、その枠組みはすでに失われている。彼らはもはや、大国に併呑されるのを待つだけの存在であった。
楽観的な希望的観測と、迫る危機に対する当事者意識の欠如――その醜態は先の帝国盟主大戦で十分に晒されていたが、それでも「大国に飲み込まれる」という未来だけは、彼らにも現実味をもって受け止められていた。
なぜなら、それはすでに起こっていたからである。
正統ルガルディア帝国の西国境に隣接するサンテルラン央王国は、大戦の混乱に乗じて侵入し、その一部を武力で併合した。シャルル騎士王が表舞台から姿を消して以降、内戦と南部志向の対外政策に注力していた大国が、再び別方向への膨張を目論んでいるのである。
旧アーベントマルク伯爵領も、すでにサンテルランと国境を接する所領の一つであった。次に狙われかねない地であり、同時にエルデンライヒとしても決して手放したくない要衝でもある。ゆえにこの地は、いずれかにつかなければ力づくで奪われかねない状況に追い込まれていた。
「サンテルランの傘下に入っても、利はありません。彼らの権力構造に新参者が入り込む余地はなく、冷遇されるのは目に見えております」
「しかし……エルデンライヒでは貴族位が剥奪されると聞く。どちらも同じではないか?」
諸侯が決断できない理由は、まさにこの点にあった。
彼らは支配階層としての地位に慣れきっており、それを失うこと、あるいは従来の特権が保証されないことに強い抵抗を示したのである。正統ルガルディア帝国ではそれが担保されていたが、迫る二大大国はいずれもそれを約束してはいなかった。
貴族社会が完全に固定化され、新参の入り込む余地がないサンテルラン央王国
貴族位を廃し、実力と才覚による立身出世を掲げるエルデンライヒ帝国
どちらも、彼らにとって魅力的な選択肢とは言い難かった。
それでも強いて言えば、旧来の関係と出世の余地が残る分、エルデンライヒの方がまだましである。だが彼らは素直に従属することを避け、何かしらの特権や身分保証を引き出そうと、回答を意図的に引き延ばしていた。
エルンストはその手の駆け引きに慣れきっていた。いや、これらの雑事とも言える外交処理の過程でその最適解を導き出すことができていた。
外交の場で何度も目にしてきた光景であり、今さら振り回されることはない。彼はかつてのグラウエンシュタインとは異なる手法で、相手に条件を呑ませる揺さぶりをかけることにした。
「アーベントマルク卿……これは、ここだけの話なのですが」
彼はエルデンライヒという国家の特性と力を、外交の場で最大限に利用することにした。
「軍部は、諸侯を圧倒的武力によって屈服させ、面倒事を力で解決しようと息巻いております」
「な……何と⁉」
「陛下は恭順を示す者を丁重に扱うとおっしゃっていますが、先の大戦で勢いづいた軍部は、サンテルランに靡きかねない者を放置できぬと、すでに動き始めているのです」
そう言って、エルンストは一枚の名簿を差し出した。
「これは?」
「軍部が作成した攻撃対象の一覧です。上から優先順位が付けられており、すでに二番目まで制圧済みとのことです」
元アーベントマルク伯爵は顔を青ざめさせた。
名簿の4番目に記された自身の名。そして、その上に並ぶ「制圧済み」の名が、反旗を翻し、鎮圧され、一族郎党処刑されたという噂の人物と一致していたからである。
「陛下は争いを望んでおられません。しかし、他国の勢力拡大を座して見過ごすお方でもない。そして軍部もまた、陛下のためにと一層奮起しているのです」
アーベントマルク卿は完全に追い詰められていた。
グラウエンシュタインを屈服させたエルデンライヒの軍事力は伊達ではない。反乱分子が束になってかかろうと、抗し得ないことは明白であった。もはや有利な譲歩案を引き出せる状況ではない。
「……ファルケンヴァルト卿。もしエルデンライヒに膝を屈すれば、我々の一族が守られる保証はあるのですか?」
「貴族位は失われます。しかし、御子息は領地運営において才を示されていると存じております。彼であれば、帝国においても立身出世は不可能ではありますまい。私自身も、陛下の温情によってこの地位に就いております。決して望みがないわけではありません」
「……そうですか」
「それに、正統帝国議会の議事録を拝見しましたが、卿はエルデンライヒ大同盟との戦に反対の立場であったとか。その事実こそ、陛下への忠誠を示す何よりの証では?」
無論、エルンストは目の前の男がそのような信念を持っているとは考えていなかった。彼はただ、その場その場で都合よく立ち回ってきただけの俗物である。だが、だからこそこの手法が通じる。
事実と正論で抵抗心を削ぎ落とし、現実を突きつけ、最後に都合のよい逃げ道を用意する。
そうすれば、相手は自らそこへ縋りつく。
「……皇帝陛下にお伝えください。この身の忠誠を捧げると」
こうして、彼は折れた。
多少の抵抗や駆け引きで時間は食うものの、やっていることは実に単純な作業であった。
共有利益と協調的妥協の追求に終始していたグラウエンシュタイン時代とは異なり、現在のエルンストは、軍事力による無慈悲な制圧という“鞭”と、恭順によって得られる安全と立身出世の可能性という“飴”を使い分ける外交戦略家へと昇華していた。




