第6章:皇帝ヴィルヘルムに栄光あれ!④
「エルデンライヒ大同盟より参りました。外交官、エルンスト・フォン・ファルケンヴァルトと申します」
かつてグラウエンシュタインの外交官であった青年は、はっきりと「自分はエルデンライヒの人間である」と言い切った。その言葉に、傍らに控える父テオドールは思わず目を見開いたが、エルンストは意にも介さず続けた。
「我々エルデンライヒ大同盟は、貴国グラウエンシュタイン大公国に対し、全面的かつ無条件の降伏を要求いたします。もしこれが受け入れられぬ場合、我々は即座に貴国の首都ノイ・ヴィーンへ全面攻勢を開始する用意があることを、ここに宣言いたします。代表者、エリザーベト・フォン・グラウエンシュタイン殿――ご返答はいかに」
あまりにも堂々とした物言いであった。
エリザーベトは、かつて自身の傍らに控えていた頃よりも、遥かに男らしく成長したその姿を見つめ、胸の奥に感動と呼ぶべき感情が込み上げるのを自覚した。
「……ええ。その条件を受け入れましょう。グラウエンシュタイン大公国は、貴国エルデンライヒ大同盟に無条件降伏し、貴国への編入、あるいは併合にも応じることを、ここに確約いたします」
他者に言わせることはあっても、自ら口にすることはなかった言葉を、思いのほか淀みなく発せられたことに、彼女は微かな驚きを覚えた。しかしそれが、自身の偽らざる本心であると理解するのに、何の苦労も要しなかった。
「承知いたしました。そのご決断を、我々は光栄に存じます。以後、グラウエンシュタイン大公国は、我々エルデンライヒ大同盟の統治下に置かれ、その“一切に対して責任を持つ”ことを、ここに確約いたします」
含みを持たせたその言い回しに、エリザーベトはわずかに眉を上げた。
「……その“一切”に、ですか?」
「はい。貴国の体制を見直し、大同盟の構成国として相応しい形へ改めるとともに、これまで抱えてきた諸問題にも、我々が責任を持って向き合います」
その言葉が意味するもの――
それが、グラウエンシュタインの威厳の名のもとに犠牲にされてきた者たちへの対応であり、積み重ねられてきた過ちの清算であると理解した瞬間、エリザーベトはようやく悟った。
エルンストが離反した、本当の理由を。
「……そう。エルンスト、あなたは……私の国の過ちを、知っていたのですね」
やはり彼は、天才の類であった。
秘匿され、関与することさえ許されなかった国家事業の闇を知りながら、それでもなお祖国に仕えようと努力を重ねた外交官。しかし、古い価値観と慣習に固執し、現実と向き合おうとしなかった者たちに失望した若者でもあった。
彼は、自らが祖国の敵となり、裏切り者と罵られることを承知の上で、国の在り方を正す道を選んだ。そしてその過ちが、歴史に汚点として残らぬよう、あえて自らの支配下に置くことで封殺しようとしていたのである。
「……そこまで考えていたの?自分たちが、悪者になると分かっていても……」
歴史において、この戦いはきっとこう記されるだろう。
――領土拡大の野心に駆られたエルデンライヒ大同盟なる侵略者が、地域大国グラウエンシュタイン大公国を一方的に打ち破り、その支配下に置いた、と。
それは、彼女が幾度となく目にしてきた、歴史書の常套句であった。
後世の者たちは、その一文だけを見て侵略者を非難し、支配された側を哀れむ。実情を知ろうともせず、条件反射的に断罪する。
だからこそ、人は学ばず、同じ過ちを繰り返す。
エリザーベトはそれを愚かだと思っていたし、同時に、それが人間の限界であることも知っていた。――そして、彼女自身は、その限界を利用してきた側の人間であった。
だが今、目の前の若者たちはさらに一歩先へ進もうとしている。
自らが歴史の悪役になることで、支配される側の暗部を塗り潰そうとしているのだと理解した時、彼女の胸に湧き上がったのは、羞恥と、どうしようもない悲壮感であった。
その沈黙を破ったのは、ヴィルヘルムであった。
「大叔母上のお気持ちは察します。しかし、我々は支配者となり、貴女方は被支配者となる。それ以上でも以下でもない。その事実が、歴史書に記される文章を迷わせることはないでしょう」
「……それでいいの、ヴィルヘルム?」
「それでよいのです、大叔母上」
迷いのない瞳。
そして彼の傍らに控える二人の若者の鋭い眼差しが、若き支配者の決意を現実にする覚悟を示していた。これ以上の追及は、彼らの覚悟を侮辱することになる――そう悟ったエリザーベトは、それ以上何も言わなかった。
しかし――
「……立派な覚悟です。エルンストの外交戦略も、そちらの軍人さんの軍事的手腕も、そしてヴィルヘルム、あなたの君主としての政治姿勢も。ですが――それでは駄目ね」
それは、年長者としての、最後の授業であった。
「覇道の始まりが、こんなにも暗くていいはずがないでしょう。歩き出しは華やかに。それが世間と歴史書において、何より重視される要素なのよ」
そしてエリザーベトは、最後まで傍に残った忠臣に命じた。
「――“戴冠宝器”を。彼らに授けなさい」
「国母様、それは……!」
「構いません、テオドール。私たちには、もはや不要なものです。でも、彼らには価値があるかもしれませんから」
澄み切った国母の眼差しに射抜かれ、テオドールは「……かしこまりました」と答え、謁見の間を後にした。
「なあ……“戴冠宝器”って、なんだ?」
沈黙を守っていたジークハルトが、そっとヴィルヘルムに尋ねる。
「その国の正統な継承者に授けられる、正統性の象徴だ。私のローゼンベルク戴冠式でも見ただろう」
「ああ、王冠とか、ああいうやつか。じゃあ、グラウエンシュタインの王冠を――」
「違う」
ヴィルヘルムは、一拍置いて言った。
「正統ルガルディア帝国の正統性の象徴――“皇帝の冠”だ」
正統ルガルディア帝国とは、皇帝を僭称するシャルル騎士王に対抗するために結成された諸邦連合である。
その実情はさておき、彼らが掲げた至上命題はただ一つ――“皇帝の不在を守護する帝国”であること。
そこに主たる“皇帝”は存在しない。
根本的な矛盾を抱えた存在であった。
だが、皇帝の証である“冠”だけは、その神聖性と存在を象徴するために作られていた。そしてそれを保有する者こそが、「皇帝空位を守る者」――すなわち帝国摂統であることを意味していた。その役目を、グラウエンシュタインは長らく担ってきたのである。
謁見の間に運び込まれたその冠を目にした瞬間、重要性を正しく理解していなかったジークハルトも、理解しすぎていたエルンストも、そして、それを授けられる立場にあるヴィルヘルムでさえ、息を呑んだ。
それは、1世紀半にわたり、戴くべき主を持たなかった“皇帝”の象徴であった。
黄金と宝石を隙間なく敷き詰めた、絢爛豪華な王冠とは違い、その姿は驚くほどに簡素で、銀色をしていた。だが、その装飾には大小さまざまなダイヤモンドが用いられており、下手な黄金の王冠よりも遥かに高価であった。
鉱石の中でも最大硬度を誇るダイヤモンドの加工は、当時において極めて困難な技術である。長きにわたり自然結晶のまま用いられてきたその石は、始祖ルガルドの冠に用いられたことをきっかけに皇帝の象徴となり、技術的にも儀礼的にも使用が制限された結果、研磨技術は限られた者しか扱えぬ秘奥となった。
その結晶が、惜しみなく用いられた皇帝の冠――『帝冠』が、そこに鎮座していた。
「ヴィルヘルム、こちらへいらっしゃい」
エリザーベトはそっと冠に手を添え、新たな支配者を呼び寄せる。
「あなたには、あなたの帝国が相応しいとは思うけれど……それでも、これを受け取ってほしいの」
それは正統ルガルディア帝国の皇帝を象徴する冠であり、ヴィルヘルムがその帝国の皇帝となるわけではない。しかも、その場に居合わせたのはジークハルトとエルンストのみ。戴冠の儀としては、あまりにも静かで、寂しい。
それでも――
「はい。謹んで、戴きます」
ヴィルヘルムはその戴冠を受け入れた。
正式な戴冠式は後日、彼の帝国にて盛大に執り行われる予定である。ここで行われるのは儀式ではない。正統なる帝国の守護者から、その象徴を引き渡されるという、純然たる政治行為であった。
それは、正統ルガルディア帝国の終焉を、名実ともに示す歴史的瞬間である。
片膝をつき、跪いたヴィルヘルムの頭に、エリザーベトは静かに冠を載せた。そして最後に、君主としての心構えを託す。
「いい、ヴィルヘルム。これから汝は、極めて厳しい覇道を歩むことになるでしょう。悲痛な別れも、言葉に尽くせぬ困難も、必ず訪れます。それでも――世界の果てまで、歩みを止めぬことを誓えますか?」
それは祝詞ではなかった。
実際にそこを歩んできた者だけが放てる、重力と質量を伴った言葉であった。
ヴィルヘルムは厳かに答える。
「はい。私はこの生涯において、世界の果てまで歩みを止めぬことを、ここに誓います」
その声に、揺らぎはない。
「幸いにも、私には信頼できる友と仲間がいます。彼らと共に、その道を歩んでいく所存です」
「……よろしい」
エリザーベトは静かに頷いた。
「それでは、正統ルガルディア帝国の証であるこの冠を、汝に託します。その重みを、決して忘れぬように……」
戴冠式と呼ぶには、あまりにも簡潔で、静謐な儀であった。
だが、その重みに屈することなく、ヴィルヘルムは立ち上がった。
この瞬間をもって、正統ルガルディア帝国は歴史からその姿を消した。
かつてルガルディア帝国を滅ぼしたのは、大陸摂護官アウレリウス・ヴァルノンであった。しかし、正統ルガルディア帝国を終わらせたのは、前帝国摂統エリザーベト・フォン・グラウエンシュタインである。
だが、両者に共通するのは、帝国を滅ぼした存在であると同時に、新たなる時代の生みの親であったという点であった。
若き“皇帝”が謁見の間を去ろうとした、その時――重く垂れ込めていた雲が裂け、陽の光が差し込んだ。
光は謁見の間を満たし、白金色の髪と、彼の頭上に輝く帝冠を煌めかせた。
――なんと、眩い姿であろうか。
エリザーベトは目を細め、頬を伝う涙を止めることなく、人生で最も大きな声を張り上げた。
「皇帝ヴィルヘルムに栄光あれ!! 皇帝ヴィルヘルム、万歳!!」
この瞬間こそが、ヴィルヘルムが皇帝となった瞬間であった。
そして偶然か、必然か――
その場に立ち会った二人は、後に『帝国宰相』として政治を司る者と、『帝国軍元帥』として軍を率いる者となる。
孫の世代にも等しい若者たちの行く末が、栄光に満ちたものであるように。
エリザーベトは、彼らの姿が見えなくなるまで、万歳三唱をやめることはなかった。




