第6章:皇帝ヴィルヘルムに栄光あれ!③
歴史書に記される、ある女性君主の話をしよう。
彼女は世界史において類稀なる才覚を示した偉人であり、名だたる男性君主や為政者が歴史に名を刻む中で、ひときわ異彩を放つ存在である。「歴史上、最も偉大な女性は誰か」と問われれば、必ずその名が挙がるほど、卓越した外交戦略家であった。
しかし、その幼少期の評価は「物静かな少女」であったという。後世において語られる彼女の人物像を思えば、これは意外な一面と言えるだろう。外交という戦場で辣腕を振るった人物であるがゆえに、多弁で精力的な姿の方が語られがちだからである。
だが実際には、彼女は多くを語るよりも書に向き合い、歴史を読み解き、人の本質を静かに見通すことに長けた少女であったと、近しい者たちは語っている。寡黙と評されても何ら不思議のない、そんな少女時代であった。
その少女がいかにして歴史の表舞台に立ったのか。その始まりは、帝国随一の名家の後継者に、わずか18歳で選ばれたことにある。女性であり、さらに兄と姉を二人ずつ持つ立場としては、分不相応と言わざるを得ない地位であった。しかし、その背後には複雑な政治事情があった。男児である兄の一人は病死し、もう一人もまた病弱であった。分家に男児がいなかったわけではないが、あまりにも幼過ぎて対象外であり、姉たちは健康であったが、すでに他家へ嫁いでおり、名家の跡取りとするには政治的な問題が多かった。
その結果、未婚であり、他家の影響下になく、かつ直系である彼女に白羽の矢が立ったのである。無論、当時18歳の少女が家督を継ぐことに対して、批判や反発、侮りがなかったわけではない。彼女の生家は長きにわたり築いてきた地位から一時的に退き、「彼らの時代は終わった」と囁かれるほど、誰も彼女に大きな期待を寄せていなかった。
だが、その評価を覆すだけの実績を、彼女は積み重ねていく。国外勢力を屈服させ、国家を発展させ、地域随一の経済力と国力、そして威厳と芸術性を兼ね備えた一大国家としての地位を確立したのである。
歴史を紐解けば、人々の関心と評価を得るための手法は驚くほど単純だということを、歴史に通じた彼女はよく理解していた。
共通の外敵を作り、勝算の高い戦いを確実に制し、その成果を誇示し、得られた富と利益を誰の目にも明らかな形で示せば、多くの者はそれを“偉業”と呼ぶ。
彼女の行ったことは、突き詰めれば歴史上何度も繰り返されてきた王道に過ぎない。だが、多くの者が歴史に学ばないこと、そして王道が王道たるゆえんを、彼女は理解していた。理屈を知る者は多いが、それを実行し、結果に結びつけられる者は少ない。その点において、18歳という若さからそれを成し遂げてきた彼女は、間違いなく偉人であった。
彼女はまた、有力貴族の傍系に連なる人物と婚姻を結び、他家からの影響力獲得にも抜かりがなかった。夫が35歳を過ぎた再婚者であったことは、もはや問題にならなかった。それほどまでに、彼女自身の姿勢と功績が際立っていたからである。彼女は最初の夫との間に6人の子をもうけ、死別後は生家の支流に連なる男性と再婚し、さらに8人の子を産んだ。四十代に差し掛かり、医師から止められるまでに14人の子を産むというのは、当時においても異例であった。4人は乳児期に亡くなったが、生き残った10人は政治的要職に就くか、有力家門へ嫁ぎ、その影響力を拡大していった。彼女を起点とする血脈と婚姻政策は、後の外交において強力な武器となり、生家の地位を盤石なものとした。
国家は2、30年にわたり、発展の文字に彩られた絶頂期を迎えた。しかしその陰で、彼女は密かな焦りを抱えていた。圧倒的な国力を誇るがゆえに、停滞の兆しを見せること自体が危険であったからだ。だが、すでに甘い蜜を吸い尽くした痩せた土地から、これ以上の成長は望めない。将来的な伸び代がないことを悟った彼女は、新たな“敵”を必要とした。
その標的となったのは、絶大な権威を欲する隣国の野心家であった。才能と適性に乏しく、勝算は十分に見込める。彼女は巧妙に事を仕込み、煽り、陥れ、相手から火蓋を切らせる状況を作り上げた。
結果は大成功であった。どれほど強大な軍を持とうとも、無能な君主に率いられては力を発揮できない。彼女はまたしても、徹底的に計算された勝利を手にしたのである。その勝利は国家の威厳を誇示し、再び20年の安寧をもたらした。
彼女はすでに老婆と呼ばれても差し支えない年齢になっていたが、それでも国政の最前線に立ち続けた。彼女自身が国家であり、そこは彼女の帝国であった。もはや建設的な成長が見込めず、枯れ果てた畑にしがみつくしかなくなったとしても、彼女は止まることができなかったのである。
年齢が七十代へ達した時、彼女は隣国にとんでもない“才能”を見出した。
知性と政治力を十分に備え、それを武器として躊躇なく振るう意志と行動力を持つ青年。その出現は彼女に恐怖をもたらすと同時に、奇妙な希望をも抱かせた。彼はあまりにも魅惑的で、同時に危険な剣であったが、味方につけることができればこれ以上なく頼もしい存在でもあった。
故に彼女は、再び勝算の高いと踏んだ勝負に打って出た。この段階に至っては、もはや生家単独で地位と威厳を維持することは不可能であった。内部の結束を保ち、外部からの干渉を防ぐだけの力を得るには、それ以外の選択肢がなかったのである。幸いにも彼女の傍らには、その青年に匹敵し得る優秀な外交官の若者がいた。この賭けは、決して無謀なものではない――少なくとも、その時点ではそう信じるに足る材料が揃っていた。
しかし、その勝負において彼女は敗れた。
これまでの人生で一度も味わったことのない敗北という名の烈酒は、老いた彼女の身に重くのしかかった。勝算の高い戦いに敗れ、信頼していた若者にも去られ、ついには他者を屈服させる“力”そのものをほとんど失った。もはや有効な抵抗は望めず、これまで国政を彼女一人に委ねてきた者たちですら、不義理にも背を向け始めた時、彼女に残された手段は何一つなかった。
歴史に学び、虚栄と他者の犠牲の上に築き上げられたこの美しい都市が、砲撃に晒される現実が迫った時――彼女の胸に去来したのは喪失への恐怖ではなかった。むしろ、すべてを清算してくれるかのような安堵であった。その感情に最も戸惑ったのは彼女自身である。それは国家の合理性と一体化してしまった彼女の内に、なお残されていた、紛れもなく人間としての感情であった。
その揺らぎを抱えたまま、彼女は決断できずにいた。だが、ほとんど眠れぬ夜に鳴り響いた無遠慮な砲声が、ついに彼女の迷いを断ち切った。
帝国の女主人、グラウエンシュタイン大公国の国母、そして稀代の外交戦略家。
――エリザーベト・フォン・グラウエンシュタインは、自身の住まいであるヴァイスリヒト宮殿の謁見の間にて、新たなる支配者の到来を静かに待っていた。
「白光の間」と称されるその空間は、天井がガラス張りとなり、白亜の大理石で造られた壁や柱、床が淡く光を受け止め、反射させることで、まるで白き光そのもののように輝くはずの場所であった。だがその日の空は、彼女の心情を映すかのような曇天であり、名に違わぬ光は差し込まなかった。彼女はその空間を見渡しながら、ただ白金の国王の到来を待った。
傍らに控えるのは、忠臣として名高い外務大臣ただ一人。ほとんどの者はすでに宮殿を去っていた。
女主人として君臨してきた自身の終焉を、否応なく実感したその時――
謁見の間の重厚な扉が、静かに、しかし確かな音を立てて開かれた。
「……待っていましたよ、ヴィルヘルム」
「私も、この時を待っておりました。大叔母上」
大陸暦1274年5月9日
グラウエンシュタイン大公に代わり、前大公エリザーベトが、エルデンライヒ大同盟の盟主たる若き君主ヴィルヘルムに、無条件降伏を申し出た日――その瞬間である。




