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第6章:皇帝ヴィルヘルムに栄光あれ!①

「降伏すべきですな」


 開口一番、ライヒェナウはそう言い放った。


「……ヨーゼフ、何を言い出すのです?戻ってきて早々に」


 応じたのは女主人エリザーベトだった。彼女を筆頭に、その一室にはグラウエンシュタイン首脳陣が居並んでいる。


「国母様に対して無礼であるぞ、ライヒェナウ少将!」


 声を荒げたのは外務大臣テオドールであった。他の面々もまた、総じて同じ表情を浮かべている。


「なあに。我が軍の主力が敗北した。それだけの話です。もはやグラウエンシュタインはおしまいだ」


「何を言うかと思えば……。今後の方針を協議していたところだ。雷鳴王にどのような――」


「だから、敗北したんだよ。文字通りの全滅だ。軍事用語的な意味じゃない」


 ライヒェナウは吐き捨てるように続けた。


「主力軍は死んだか、捕虜になったか、そのどちらかだ。一兵も戻っちゃいない。俺みたいに逃げ延びた幸運な奴が、ほかにいるかもしれんが、それだけだ。我々には、もう雷鳴王に立ち向かう戦力なんて残されてないんだよ、テオドール!」


 アルトグレーツの戦いを目にしていない上層部に向けて、やけになった声が叩きつけられる。


 彼が戻ってきたのは、戦勝報告でも伝令でもない。ただの敗走者としてだった。


「……どういうことだ、ヨーゼフ」


 旧友の荒げた口調と、珍しく強張った表情に、テオドールは詳細を求めた。


 ライヒェナウは語った。


 エルデンライヒ軍に歯が立たず敗北したこと。


 総司令官オットー3世の身柄が、敵の手に落ちたこと。


 そして、自分だけがおめおめと逃げ帰ってきたこと。


 知る限りのすべてを、包み隠さずに。


「……なぜ、あなただけが追手から逃れられたの、ヨーゼフ?」


 エリザーベトの声には、わずかながら非難が滲んでいた。――息子オットーを差し出した代償に見逃されたのではないか、という疑念。


 それを察し、ライヒェナウは内心で思う。


 正統帝国軍を守るためなら息子の命すら切り捨てると、かつて言い切った女主人も、結局は人の親なのだと。


「逃げられたんじゃありません。見逃されたんですよ、国母様。彼らが欲しかったのは大公殿下だけで、私には何の興味もなかった」


 肩をすくめて、続ける。


「降伏を勧める使者になると言ったら、そのまま放免されました。どう抵抗しても無駄だと、向こうは分かっていたんでしょう。だから、どうでもよかったんですよ」


 カールという騎兵指揮官が、ほとんど関心も示さず自分を解放した理由は、今なお分からない。本当に利用価値がなかったのか、それとも別の意図があったのか――答えの出ぬまま、ライヒェナウは首都ノイ・ヴィーンへ戻ってきた。


 降伏勧告を果たそうが、情報を持ち帰って抵抗しようが、どちらでも構わない。


 彼らにとって、グラウエンシュタインとはその程度の存在でしかない。


 ライヒェナウには、そうとしか思えなかった。


「さっき、ちらりと見えましたがね。もうローゼンベルク……いや、エルデンライヒの先遣隊は到着しているようでした」


 ライヒェナウは淡々と告げた。


「数は一個大隊ほど。ただし、大砲もあり、騎馬も相当数いた。偵察というより、精鋭でしょうな」


 そして、彼はその指揮官に心当たりがあることを口にする。


「追手の指揮官から名を聞いて、今しがた調べました。ジークハルトという男らしい。エルンストのまとめた資料では、重要人物欄に載っていましたよ」


 その名に、集まった面々はまだ実感を持てずにいる。


 そこでライヒェナウは、事実でもって突きつけた。


「雷鳴王の腹心の一人です。――ワルサヴィクを砲撃した男でもある」


 瞬間、室内の空気が凍りついた。


 旧共和国の首都を瓦礫の山に変え、そこに巣食っていた勢力を一方的に排除した――その軍事的詳細を知らずとも、意味は十分に伝わった。


 ジークハルトとは、“政治的中枢たる首都を、躊躇なく攻撃した経験を持つ軍人”なのだ。


「まさか……このノイ・ヴィーンを砲撃するなど」


「いいや、テオドール。あいつらならやる」


「何を根拠に……。ここは内乱で荒れたワルサヴィクとは違う。帝国に比肩するものなき大都市ノイ・ヴィーンだぞ?」


「関係ない。相手の目的は、グラウエンシュタインを徹底的に潰すことだ。そこに交渉の余地はない」


「そんな……横暴な」


「横暴なんかじゃねぇ」


 ライヒェナウは吐き捨てるように言った。


「あいつらは、こっちの腹を完全に読んでるんだ。


 ――『きつくなったら交渉で妥協点を探す。相手も理性的だから、それに応じるはずだ。そこで何とか、こちらの言い分を通せる余地がある』


 ……この期に及んで、そんなこと考えてんじゃねえだろうな?お偉方さんよ」


 その言葉に、テオドールをはじめ、数名が無言で視線を逸らした。


 それこそが、グラウエンシュタイン最大の落ち度だった。


「俺は外交官じゃない。外交の作法も、鉄則も知らん」


 だが、と前置きして続ける。


「相手が話す気もないのに、交渉が成立すると思うか?もう俺たちには、その前提そのものが残っていないんだ」


 最後は必ず話し合いに応じる――そんな暗黙の安心感があったからこそ、彼らはこれまで高を括ってきた。


 軍事的に敗北しても、交渉次第で何とかなる。


 あの騎士王にも、暴君カール1世にも、軍事的冒険を繰り返したフリードリヒ2世にも、それで切り抜けてきたという成功体験があった。


 だがそれは、本気でグラウエンシュタインを滅ぼしに来る相手の前では、何の意味も持たない。


 ヴィルヘルムは、交渉や話し合いによる妥協ではなく、実力をもってグラウエンシュタインを屈服させ、併呑する道を選んだ。それが彼の明確な目標であり、そこに共存という選択肢は存在しない。ゆえに彼は、その達成のために最善の手を選び、周到に準備し、そして遺憾なくそれを行使した。もとより、外交による決着など念頭にすらなかったのである。


「アルトグレーツでもそうだったが、あいつらは、負けが確定してる相手と交渉なんてしない。考えてみりゃ当然だ。戦えば勝てるんだからな」


 一息置いて、言い切る。


「そして、グラウエンシュタインと共存する気もない。だから――」


「そこまでよ、ライヒェナウ少将」


 それまで沈黙を保っていた女主人エリザーベトが、ついに制止した。


 彼女は、親しい者や重要な相手には名で呼び、親近感を示すことで手懐ける。


 だが今、彼女ははっきりと、彼を苗字と階級で呼んだ。


 それはつまり――


 ライヒェナウが、彼女にとって“内側の人間”ではなくなったことを意味していた。


「だから、エルデンライヒ大同盟に降伏し、併呑されるのを是とすべきだと……。あなたも、エルンストと同じことを言うのね」


 その問いには、かつて信頼し、目をかけていた者が去り、敵に寝返ったことへの強い嫌悪と、同時にこちらを試すような響きがあった。


 テオドールが悲痛な表情を浮かべている通り、エルンストという名は、もはや彼らの間で口にすることすら憚られる禁忌となっている。


 だが、ライヒェナウは気にしなかった。


「エルンスト?……ああ、そうか」


 一拍置いて、力なく笑う。


「やっぱり、あいつは天才だったよ、テオドール。俺たちみたいに、知識や経験だけ積み上げた年寄りじゃなくてな。若くて、未来があったからこそ、見えていたんだ」


 耐えきれず、笑いが漏れた。


 試験の答えを、すべて終わった後で見せつけられたような気分だった。


「何がおかしいのです、ライヒェナウ少将」


 エリザーベトの声には、静かな怒気が混じる。


 その怒りは、これまで数多の反対意見を押し潰してきた、グラウエンシュタインにおいて最も恐るべき力だった。


 同時にそれは、この国が自らの限界を直視する機会を奪ってきた原因でもある。


「この国は……いや、正統ルガルディア帝国は、もう限界なんですよ、国母様」


 ライヒェナウは、これまで自らが身を置いてきたグラウエンシュタインの姿を振り返り、その兆候を思い返した。


 強大な軍事力を持つ相手に勝つのではなく、ただ負けないことを至上原理とし、根本的に勝つための研鑽を怠ってきたこと。


 自国の威厳や繁栄を維持するために、下の立場にある者たちを犠牲にせざるを得ない体制に慣れ親しみ、その現状に甘んじてきたこと。


 その結果、国家として、民や兵士を健全に生かす努力を怠り、ついには、このような破局に追い込まれるまで、異常な安寧に気づくことすらなかった。


 振り返れば、あらゆることが、異常な安寧に溺れた結果としての当然の報いであった。


 果たすべき努力を怠れば、それを怠った者が敗れる――至極当然の自然の理。それが、まさにグラウエンシュタインの姿であった。


「いいえ、まだ終わってなどいません」


 ただ一人、首を縦に振らない者がいた。


「我々には、まだ首都守備隊があります。彼らを動員し、敵の首都攻撃を阻止して、それをもって講和を――」


「やるのは勝手です」


 ライヒェナウは遮った。


「ですが、もう兵士を無駄に死なせないでくださいよ」


 その言葉は、自分自身にも向けられていた。


「俺はローゼンベルクが好きじゃなかった。徴兵制も、軍事に偏った国政も……全部だ。でもな…」


 包囲殲滅戦の記憶が、脳裏に焼き付いて離れない。


「俺たちが、やるべき努力を怠ったから、兵士たちは死んだ。もっと真面目に軍を整えていれば、助かった命もあったかもしれない……そう思わされたんですよ」


「それはローゼンベルクに毒された考え方だわ。グラウエンシュタインには相応しくない」


「では、軍事以外では?」


 ライヒェナウは、視線を逸らさずに問う。


「そのどれもが、後世の人間に胸を張って誇れる行いだったと、そう言えますか、国母様」


 ライヒェナウは、何を指しているのかを、エリザーベトに直接的ではない言葉で突きつけずにはいられなかった。


 まさにグラウエンシュタインという国家を具現化した人間離れした人物。その在り方は、国家としての合理性や理性においては正しくても、人間的に正しいとは限らない。いや、国家としても絶対的に正しいとは言えまい。


 後世の、未来の若者たちが、そんな国を誇りに思い、そこに住みたいと願うだろうか。どうしてこの国の一員であることに誇りを抱けるというのか。


 未来に誇れぬ国に、若者が希望を託すはずもない。


 エルンストを裏切り者と罵る前に、彼が誇りを持てる国を築く責任が、大人であった自分たちにはあったのだ。


「ともかく、グラウエンシュタインは寿命を迎えました」


 静かに、言い切る。


「延命治療で寝たきりにするより、潔く終わらせて、前途ある若者に道を譲る。……そういう大人の姿を見せてもいいんじゃないですかね」


 そう言い残し、ライヒェナウは背を向けた。


「あなたも、ヴィルヘルムの元へ行くの?」


「いいえ」


 立ち止まり、振り返らずに答える。


「俺もグラウエンシュタイン人です。なんだかんだで祖国には愛着があるし、ここで過ごした日々も、すべてが悪い思い出だったわけじゃない」


「なら――」


「かと言って、グラウエンシュタインには、もう戦うための術がない。……そうしてやるべきじゃない。だから――」


 振り返ることはなかったが、ライヒェナウの表情がどこか晴れやかであったことは、見ずとも察せられた。


「俺は俺で、グラウエンシュタインの敵だった奴と戦うことにしますよ。逃げ回る戦いしかしてこなかったが……それでも、やっぱり軍人だ。雷鳴王とその軍に、一度くらいは勝ってみたい。そう思ったんです」


 飄々とした言動の将軍は、そのまま部屋を後にした。


 彼が再び首都ノイ・ヴィーンに戻ることはなく、グラウエンシュタインであった地を踏むこともなかった。


 だが、彼の人生は、ここで終わりではない。


 彼はやがて、ヴィルヘルムの国と再び相対するために、歴史の舞台に姿を現すことになる。


 ヨーゼフ・フォン・ライヒェナウ


 味方の損害を最小限に抑え、幾度も転戦を重ねて勝機を見いだし、粘り強く戦い抜く――持久戦の名手。


 この時の彼は、祖国の主力軍を壊滅させた敗軍の将にすぎなかった。しかし、歴史とは往々にして皮肉なものだ。カールが何気なく見逃した一人の男は、やがて未来において、避けがたき運命として、抗いがたい強敵となって立ちはだかることになる。

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