第5章:五十日間戦争⑧
『アルトグレーツの戦い』は、この会戦を指す一般的な名称である。
だが、軍事史・政治史の文脈においては、より正確な表現として以下の呼称も用いられる。
『アルトグレーツの包囲殲滅戦』
『アルトグレーツ決戦』
その名に違わぬ、凄惨かつ一方的な戦場の様相であった。
「ライヒェナウ少将!どうか……どうか命令を!我々は、どうすればいいのですか⁉」
幕僚や現場指揮官たちが次々と詰め寄ったが、ライヒェナウは応じることができなかった。
彼の眼前で繰り広げられていたのは、もはや会戦ですらない。“一方的な殲滅”である。
「撃て!!」
号令とともに、グラウエンシュタイン軍の兵士たちは戦列を整え、一斉射撃を放った。
だが――
「各個に、撃ち方始め!!」
対するエルデンライヒ軍の指揮は、それとはまったく異なるものであった。
彼らは号令による一斉射撃を必要としない。
グラウエンシュタイン軍の主力武装は先込め式長銃であり、射撃効果を得るには集団による同時射撃で制圧力を高めるしかなかった。装填には時間を要し、射撃姿勢にも大きな制約がある。
一方、エルデンライヒ軍は元込め式単発小銃を装備していた。数秒に一発という連続射撃が可能であり、準備の整った者から任意の目標を狙えばよい。装填のために立ち上がる必要もなく、伏せ撃ちによって被弾面積を抑え、安定した姿勢のまま射撃を継続できる。
結果は明白であった。
射撃は、ほぼ一方的に行われていた。
「敵の砲兵はどこだ⁉早く無力化しなければ――」
砲兵隊指揮官の檄は、言葉の途中で途切れた。
彼は、自らを撃った敵砲の姿すら捉えることができなかったのである。
エルデンライヒ軍が導入していた『クルーフ後装砲』は、射程・精度・破壊力のすべてにおいて旧式砲を凌駕していた。グラウエンシュタイン軍の砲撃が届かぬ距離から、一方的に砲撃を加えることが可能であり、砲兵陣地は前線より後方に巧妙に構築されていた。
加えて、弾着観測との連携は緊密で、敵火力は的確かつ効率的に無力化されていった。
「撤退だ!撤退しよう!」
本来であれば敵前逃亡として重罪に問われる叫びであった。
だが、その男を処罰する余裕は、もはやグラウエンシュタイン軍には残されていなかった。
三方をほぼ包囲されていた以上、そもそも物理的に逃げ場など存在しなかったのである。
「ライヒェナウ少将!交渉の使者は、まだ戻らないのですか⁉……少将⁉」
圧倒的不利な戦況を前に、グラウエンシュタイン軍はエルデンライヒ軍との交渉を試みていた。
外交的と呼ぶにはあまりに拙い行動であったが、それでも話し合いによって何かが変わるかもしれないという、微かな希望に縋るしかなかった。
だが、その希望は無慈悲に打ち砕かれる。
「降伏以外は認めない。貴軍と交渉することなど、何もない」
冷徹な返答に、グラウエンシュタインの使者は「野蛮だ」「無礼だ」と憤った。
だが、それすら意に介されなかった。
「この状況で、何を話し合えというのだ?」
使者は言葉を失った。
完全な敗北――それが現実であった。
エルデンライヒ軍にとって、敗者と交渉する利はない。戦わずして終結できる可能性はあったとしても、主力軍を温存したまま返すことは、別の戦場で再び刃を向けられる危険を意味していた。
ここでグラウエンシュタイン軍が取り得る唯一の合理的行動は“降伏”であった。しかしそれは、主力軍の消滅という、国家防衛における致命的決断を意味していた。
不幸なことに、その判断を現場で下す権限を持つ者は、誰一人として存在しなかった。
外交権限は外務省にあり、彼らはこの戦場にいない。総司令官ですら、母エリザーベトの許可なくしては決断できない。
結果として、停戦使者は戻ってきていた。
ただし、彼らが望んだ結果を携えることなく。
この地獄を、グラウエンシュタイン軍の兵士たちは体験していた。
一方で、エルデンライヒ軍の兵士たちは、戦後このような証言を残している。
「白い軍服だったから狙いやすかった。泥や血で汚れてない奴が、次の標的だった」
「白旗を結んでたのに、軍服と同じ色で見えなかった。死体を埋める時になって、やっと気づいた」
「伏せる俺たちを笑ってた連中も、最後は真似して伏せてた。でも次の弾が込められなくて、頭を抱えるだけだったな」
それらは敵兵を嘲笑うための兵士特有のブラックジョークであると同時に、軍制・技術・思想の差がもたらした、必然の結末を物語る証言でもあった。
その運命は、偶然でも不運でもない。
違いは、戦場に現れるより遥か以前に、すでに決定されていたのである。
そして、この戦場の推移と様相は、かつてカルノヴァ分割戦争における主要会戦の一つ――『タルニスの包囲戦』を、ただ規模を拡大して再現したものに過ぎないとも評された。
エルデンライヒ軍の戦法は、ほぼそのまま踏襲されていた。
そこから学び取れるものは、確かに存在したはずである。
だが、当時のライヒェナウはその戦いを目にしていなかった。彼は戦場の最奥、グラウエンシュタイン軍本陣で、マクシミリアンという名の放蕩な貴族子弟の護衛を務める立場にあり、戦況を俯瞰する機会を与えられていなかったのである。
しかし今、その記憶が脳裏をよぎった瞬間、彼の中で一筋の光が走った。
「――大公殿下」
すぐ傍らで蹲り、もはや威厳の欠片も残していないグラウエンシュタイン大公オットー3世に、ライヒェナウは最後の策を提示した。
「脱出いたしましょう。この戦は、完全な負け戦です。ノイ・ヴィーンには戻れませんが……サンテルラン、アルバレオン、あるいは他の諸侯領など、再起を図れる地はどこかにはありましょうや」
ライヒェナウは決めていた。
この哀れな主だけは、生かして戦場を離脱させる。
彼は撤退と転戦の達人であった。英雄と称されるに至ったのも、その才能があってこそである。確たる成功の保証はない。それでも、オットー3世をここへ連れてきてしまった責任は、自分にある――そう感じていた。
敗戦を招いた将として、その責は重い。だが、それを少しでも償うには、この無茶を通すほかにないと、彼は考えたのである。
もっとも、首都ノイ・ヴィーンへ逃げなかった理由には、私情もあった。
オットー3世を戦場に留めることを厳命したエリザーベトに、今は会いたくなかったこと。そして、母に逆らえぬ中年男の、これ以上惨めな姿を見たくなかったからである。
戦場から逃げたいという思いは、オットー3世も同じであった。彼は二つ返事で承諾し、ライヒェナウは直ちに周辺部隊から人員を掻き集め、突破を試みた。
幸いにも、ここから離脱したいと願う兵士は想像以上に多かった。人員には困らず、彼らを半ば消耗品のように使い潰しながら、エルデンライヒ軍の強固な包囲網をこじ開ける。
結果、脱出は成功した。
この包囲戦において、後にも先にも突破に成功したのは、ライヒェナウの指揮した部隊だけである。彼は自身の才能を「逃げ足」と自嘲していたが、エルデンライヒ軍を相手にそれを成し遂げた以上、それは紛れもない実力であった。
もっとも、それはあくまで“包囲戦の内部”での話に過ぎない。
彼らを追撃しようとする者がいなかったわけではない。
そして――それを実行できる部隊が、エルデンライヒ軍には存在していた。
「ジークハルト、敵将オットー3世を確保しろ。それをもって、勝利とする」
前線まで姿を現していたヴィルヘルムは、腹心にして友である男へ、簡潔に命じた。
「了解……この戦争を、終わらせてやる」
ジークハルトの率いる第101機動戦闘団は、この戦線においても決定的な役割を果たすことになる。
――敵国の当主、オットー3世を捕虜とした。
それは戦術的勝利ではなく、戦争そのものに終止符を打つ一撃であった。




