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第5章:五十日間戦争⑥

「……リュッケン公が戦死した、だと……」


 グラウエンシュタイン軍総司令部は、鉛のように重苦しい空気に包まれていた。この一室だけ、まるで重力が他よりも強いかのようである。


「はい……第2軍は指揮官を失い敗走しました。現在、再編の目途は立っておりません」


「ふざけるな!別の者を指揮官に据えればよいではないか!」


「それが……」


 第2軍から派遣されてきた伝令の兵士は、現在軍内部で起きている惨状を語った。責任の押し付け合い、爵位を盾にした指揮権の放棄、そしてそれを契機とする離脱者の続出。第2軍は、もはや軍としての体裁を失いつつあった。


 報告を聞き終え、総司令官オットー3世は頭を抱えた。というのも、彼が直接指揮する第1軍にも同様の兆候が見え始めており、戦線瓦解の影は確実に濃くなっていたからである。


 開戦から4週間。主戦場である対ローゼンベルク国境線での抵抗にも、いよいよ限界が見え始めていた。エルデンライヒ軍を迎撃する名目で要塞に籠もっていた正統帝国軍各部隊は、圧倒的な火力と動員力の前に次々と敗北し、中にはほとんど抵抗せず降伏する部隊すら現れていた。


 戦線がじりじりと後退し、総司令部との距離を意識せざるを得なくなった頃から、オットー3世は常に恐怖に苛まれていた。唯一の救いは、エルデンライヒ軍が各地の要塞や防御陣地を一つずつ確実に潰して回る堅実な進軍を採っていたことだ。そのため、当初危惧されていた電撃的侵攻は行われていなかった。


 防御戦力を配置すれば、敵は素直にそこへ引き寄せられ、結果として進軍を遅滞させることができた。しかし、それも所詮は時間稼ぎに過ぎない。捨て駒同然の前線部隊は、着実に残存戦力を削り取っていた。


「……ライヒェナウ少将。ここは一度、戦線を下げるべきではないかね?ローゼンベルク軍を迎撃するのに態勢を整えるため――」


「いいえ。それはできません。我が軍が瓦解します」


 オットー3世の弱音とも取れる提案を、ライヒェナウは即座に却下した。彼を戦線から遠ざけてはならない。それは女主人エリザーベトから下された絶対命令であり、同時に、総司令官が退いたと知れ渡れば、軍が崩壊する未来は容易に想像できた。


 もっとも、現状が極めて危機的であることは、ライヒェナウ自身も理解していた。前線の防御陣地による抵抗は、もはや時間稼ぎ以上の意味を持たない。それは兵士の士気を削ぎ、組織的抵抗力を確実に奪っていく。


 ゆえに、継承戦争の英雄ライヒェナウは、自らが最も得意とし、グラウエンシュタイン軍の十八番とも言える作戦を提案した。


「残存兵力を一旦後退させ、一か所に集結させましょう。そして、そこでローゼンベルク軍との一大決戦を行います」


 それは、オットー3世の提案を半分採り入れつつ、軍事の専門家としての知識と経験から導き出された最善策であった。


「決戦だと!?それでは我が軍に分が悪いのではないか!?」


「はい。正面から全面衝突すれば、勝機はありません。しかし彼らは広い戦線をほぼ横並びで統制しながら進軍しています。堅実ではありますが、一か所に投入できる兵力には限界があります」


 すなわち、分散した敵軍に対し、こちらは戦力を集中させ、局地的に圧倒する。その勝利を足掛かりとして戦局を打開する――それがライヒェナウの狙いであった。


 この戦法は、かつてのグラウエンシュタイン継承戦争でも彼が多用し、成功を収めたものである。ローゼンベルク軍は厳格な規律と指揮統制を重んじるがゆえに、戦線の一部が壊滅的打撃を受けると、指揮官主導で進軍を停止し、再編を優先する傾向があった。その隙を突いて外交交渉を仕掛け、戦術的勝利を政治的勝利へと転化させてきたのである。


 特に先王フリードリヒ2世にはその傾向が顕著で、局地的勝利に満足するあまり、結果として不利な取り決めを受け入れてしまうことも少なくなかった。その積み重ねが、最終的には軍事的優位にあった彼らを敗北へと導いてきた。


 ライヒェナウは、今回も同様にヴィルヘルムが交渉に応じると踏んでいた。


 しかし、その見積もりは甘かった。相手は、虚栄に囚われた無能なフリードリヒ2世ではない。軍事・政治の両面に才覚を持ち、優れた将兵に大きな裁量を与える度量を備えた雷鳴王ヴィルヘルム2世である。目先の損得に動じず、冷徹に戦略的合理性を追求する男。その本質を、ライヒェナウは見誤っていた。


 それは、かつて先王に勝利した成功体験の鮮烈さと、ヴィルヘルム本人を知らなかったことによる致命的な錯誤であった。


 ゆえに、この提案がグラウエンシュタイン軍の決定的敗北を招くことを、当時の彼は知る由もなかったのである。


「正統帝国軍の残存戦力を、野戦が可能な戦線後方の平原に集結させます。集結可能な兵力は、なお18万以上」


「おお……それほどの戦力が、まだ残っていたのか!」


「はい。集結完了までの間、敵の進撃を遅滞させるため最低限の前線部隊は必要ですが、それを差し引いても、局地的勝利を得るには十分です」


 オットー3世の表情が明るくなった。彼に求められているのは軍事的勝利であり、外交は母エリザーベトが何とかしてくれると信じていた。


「よろしい、少将。では、その決戦の地はどこだ?」


 ライヒェナウは顎に手を当て、地図に視線を走らせ、やがて一地点を指した。


「“アルトグレーツ”です。かつて我が軍がシャルル騎士王を迎え撃った由緒ある戦場――ここが最適でしょう」




「……何?敵軍が後退している、だと?」


 戦場から遠く離れたエルデンライヒ大同盟の中枢都市――かつての王都ベルデン。その参謀本部庁舎の一室でこの報告を受け取ったのは、戦場の構成作家と評しても過言ではない作戦局長エリアスであった。


「はい。前線部隊からの報告によれば、敵の抵抗力は目に見えて低下しています。前線に展開する兵力が意図的に削減されているのは、ほぼ間違いありません」


「……なるほど。いよいよグラウエンシュタインが得意とする、局地的決戦による逆転を狙ってきたか。ならば好都合だ」


 エリアスは薄く笑みを浮かべた。


「全軍をそこへ集結させる。望み通り、決戦に応じようではないか」


 その頭脳は、知的快楽にも似た昂揚に満たされていた。開戦以来、彼はほとんど作戦局に籠もりきりで、刻々と変化する戦況を把握しながら、グラウエンシュタイン軍を完全に撃破するための“瞬間”を待ち続けてきたのである。


 敵は愚直なまでに戦線防衛を続けてきた。しかし、その延長線上に決定的勝利は存在しない。どこかで戦局を一気に傾ける転回点が必要であることを、エリアスは誰よりも理解していた。


 彼は父ヘルマンを、個人的には決して好いてはいない。だが、彼ほど、名参謀であり、卓越した戦略家から直接理論と教育を受けた者も、また他に存在しなかった。無意識のうちにエリアスは、父が最も重視してきた概念――“戦局の転回点”を、今まさに目前に感じ取っていたのである。


「全軍に通達しろ。敵軍の集結地に向けて進軍を開始せよ。そして、同地においてこれを撃滅する」


「了解致しました。……して、その決戦地は?」


 作戦展開図と現地から集められた地勢報告書に視線を走らせ、エリアスは一瞬の逡巡もなく結論を導き出した。


「おそらく――“アルトグレーツ”だ。戦線との位置関係、大軍を展開可能な地形、そして敵総司令部からの距離。いずれを取っても、敵が決戦を挑む地点はそこしかない」


 さすがは作戦参謀の寵児と称される男である。その読みは完全に的中していた。


 彼の推測と作戦計画は、直ちに参謀総長ヘルマン、そしてエルデンライヒ軍総司令である元帥ヴィルヘルムへと提出される。両者の承認は即日で下され、命令は時を置かず全軍へと通達された。




 かくして、戦史および軍事史にその名を刻むこととなる『アルトグレーツの戦い』は、両軍の間に明確な合意がないまま、必然として定められた。


 そして、その決戦が帝国盟主大戦の趨勢を事実上決する、文字通りの最終局面となることを――戦場に身を置く彼らは、まだ誰一人として知らなかったのである。

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