Uさんによる投稿・その2
私も立ちすくみ、引き返そうとしたその時、かすかにベちゃべちゃという音が聞こえた気がしました。振り向いた先ではワカメのような手が腰壁にしがみつき、少しずつ這いあがってくる所でした。天使が近づくにつれて俄に潮の匂いが強まり、私はRちゃんの肩を揺すって壊れたオモチャのように「後ろ、後ろ!」と繰り返しました。Rちゃんは既に頭の中が真っ白になっていたようで、中々振り向いてくれませんでした。天使の胴体が腰壁を乗り越えようかという時になって漸くRちゃんは天使の存在に気づき、私たちは慌てて鉄の扉を開け、旧校舎に駆け込みました。
一応鍵はかけましたが、それで天使が食い止められるとも限りません。私たちは階段を上って隠れられる場所を探しましたが、大抵の部屋は授業中で、私たちを入れてくれはしなかったでしょう。必然的にトイレに隠れるしかなく、私は扉を塞いで息を潜めました。天使のべちゃべちゃとした足音が聞こえてこないかじっと耳を澄ませましたが、追ってくる様子はありませんでした。Rちゃんの匂いが部屋の臭いに紛れたのか、それとも校舎に入ってくることが出来なかったのかもしれません。二人で相談して、休み時間まで隠れて待つことに決めました。
おかしいと気付いたのは、部屋の臭いがトイレの臭いでも芳香剤の臭いでもなく、水槽のような臭いだったからです。臭いの元を探して室内を見渡すと、個室の方から微かな水音が聞こえました。お湯が湧くというより、あれは泡が弾ける音だったと思います。そのうちトイレが逆流しているような激しい音に変って、臭いも耐え難い程になっていました。Rちゃんも気付いて振り返った時には黒っぽい汁が個室の外にまで流れ出していて、中から大きな影がぬっと出て来たんです。私たちは声を上げてトイレを飛び出し、階段を駆け下りて体育館側の廊下を通りました。とにかく少しでも遠くに逃げること。それ以外何も考えられなかったんです。
けれども下駄箱に近づくと、ふと校庭に佇む天使の影が脳裏を過ぎりました。また天使が先回りしているかもしれない。私の手は力任せに振りほどかれてしまい、Rちゃんを引き留めることは出来ませんでした。こんな時、甲高いすのこの音ほど心臓に悪いものはありません。私は慌ててRちゃんを追いかけましたが、幸い天使の姿は見当たりませんでした。今がチャンスとばかりに私も靴を履き替え、そして気付きました。またあの足音が、近くをうろついていたのです。
私はRちゃんの口を塞いで左右を見渡しましたが、天使の姿はありませんでした。足音はそこまで近くはなく、背後から下駄箱越しに聞こえていました。並んだ下駄箱の校庭側を少しずつ近づいて来るようで、私たちは靴のまま校舎に上がる他ありませんでした。下駄箱の陰に隠れている間も足音はゆっくりと進み続け、そして真後ろでぴたりと立ち止まりました。気付かれた。悲鳴が漏れないよう唇を噛みしめ、指をさして下駄箱の裏を回り込むようRちゃんを促しました。天使の足音を確かめながら靴箱の間を忍び足で通り抜けなければならず、ほんの6mそこそこが果てしなく遠く感じられたのを覚えています。幸い私たちの足跡を辿っているのか、天使は靴箱の向こうを校舎側に向かって歩いているようでした。
やっとの思いでガラス戸に近づくと、いつの間にか雨が止み、雲間から光が覗いていました。このまま無事逃げ出せるかもしれない。逸る気持ちが、私をすのこに躓かせました。死んだ、と思いました。が、私は転びませんでした。Rちゃんが気付いて、脇を支えてくれたのです。私たちが九死に一生を得て胸をなで下し、そろそろと出口に向かった時でした。背後から凄まじい勢いで、あのべちゃべちゃという音が迫ってきたのです。私たちは悲鳴をあげながら玄関を飛び出し、グラウンドを横切って一心不乱に校門まで駆け抜けました。海側の正門でなく、山側の裏門を選んだのは、ただ砂浜での出来事を引きずっていたからでしょう。天使がそれ以上追って来なかったことを考えると、しかし、私たちは無意識に正解を選んでいたのだと思います。




