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第三話 第四討魔隊

第三話 第四討魔隊


 神代副隊長が扉を開いた瞬間、それまで廊下越しに聞こえていた騒がしさが、一気に黒野透真の耳へ飛び込んできた。


「――だから俺じゃねえって!」


「じゃあ誰がやったのよ」


「知らねえよ!」


「佐伯さん以外いないでしょう」


「凛、お前まで!?」


 何が起きているのかは分からない。ただ少なくとも、新しく配属される隊員を迎えるために全員が整列して待っていた、などという雰囲気ではないらしい。入口に立った黒野は思わず足を止め、今日から自分の所属先となる第四討魔隊の隊室を見渡した。


 想像していたよりもずっと広い部屋だった。二十人以上が同時に過ごせるだけの空間があり、壁際には個人用のロッカーや装備棚、中央にはいくつかの机が寄せられ、奥には作戦の打ち合わせに使うらしい大型モニターとホワイトボードが設置されている。一方で、窓際にはソファが置かれ、その近くには小型の冷蔵庫や飲み物を置く棚まであった。先ほど案内された作戦管制区画や研究区画とはまるで違う。あちらが仕事をするためだけに作られた場所なら、ここは仕事をする場所であると同時に、第四の人間たちが一日のかなりの時間を過ごすための場所なのだろう。


 そして何より、人が多い。


 椅子に座って端末を操作している者がいれば、机の上で武器の部品を広げている者もいる。数人で何かを話している者たちの横では、一人で飲み物を飲んでいる者もいる。年齢も雰囲気もばらばらで、黒野が思い描いていた「精鋭部隊」という堅苦しい印象とは随分違っていた。


「……新人が来る日くらい静かにできないのかしら」


 隣で神代副隊長が額へ手を当てると、それまで騒いでいた何人かの動きが止まった。


「あ」


 最初に声を上げたのは、部屋の中央に立っていた男だった。三十歳前後だろうか。前線の人間だと一目で分かる鍛えられた体格をしている。その片手には、なぜか割れたマグカップの取っ手だけが残されていた。


 黒野は男の手元を見る。


 男も自分の手を見る。


 そして、もう一度黒野を見る。


「……違うからな」


「何がですか」


「俺が割ったんじゃない」


「まだ何も聞いてませんけど」


「佐伯」


 神代副隊長の声が低くなる。


「はい」


「片付けて」


「だから俺じゃ――」


「片付けて」


「……はい」


 どうやらこの人は副隊長に弱いらしい。


 黒野がそんなことを考えていると、部屋の奥から笑い声が上がった。


「初日から良いところ見せたな、恒一」


「うるせえですよ、榊さん!」


 そのやり取りで周囲からも笑いが起こり、黒野もつられるように口元を緩めた。


「ほら」


 聞き覚えのある穏やかな声がして、黒野がそちらを見る。


「新人が困ってるだろ」


 御堂隊長だった。


「隊長、助けるならもうちょい早く助けてくださいよ」


「面白かったから」


「隊長!?」


 また笑い声が起こる。


 その騒ぎの中心にいる御堂隊長は、講堂で会った時と何も変わらない穏やかな表情のまま立ち上がると、黒野のところまで歩いてきた。


「一度手を止めてもらえるかな」


 決して大きな声ではなかった。それなのに不思議なほどよく通り、それまで好き勝手に過ごしていた隊員たちが自然と手を止める。雑談していた者も、装備を触っていた者も、端末を見ていた者も、それぞれ御堂隊長へ視線を向けた。


「今日から第四に一人加わる」


 そう言って、御堂隊長が黒野を見る。


「自己紹介、お願いできる?」


「はい」


 黒野は一歩前へ出た。


 講堂にはもっと大勢の人間がいたはずなのに、今の方が妙に緊張する。これから毎日のように顔を合わせ、一緒に外敵と戦うことになる人間たちだからだろうか。二十人以上の視線を受けながら、黒野は軽く息を吸った。


「黒野透真です。本日付で第四討魔隊に配属になりました。まだ分からないことばかりですけど……よろしくお願いします」


 少しだけ頭を下げる。


 数秒の沈黙があった。


「真面目!」


 先ほどの男が突然言った。


「……駄目ですか?」


「いや、悪くない。もっとこう、『俺が第四を変えてやります』とか言う新人だったら面白かったけどな」


「言いませんよ」


「じゃあ『いずれ俺が隊長になります』」


「今日会ったばかりの隊長の前で?」


「度胸は認める」


「やりませんって」


「恒一」


 女性の声が飛んだ。


「はい」


 男が反射的に返事をする。


 声の主は、少し離れた机に座っていた女性だった。黒野よりいくらか年上だろう。周囲が騒いでいる間も一人だけ落ち着いていて、手元には一冊の本が開かれている。彼女は男を一度だけ見ると、今度は黒野へ視線を向けた。


「相馬凛」


 唐突に言われ、黒野は瞬きをした。


「え?」


「名前」


「あ……黒野透真です」


「それは今聞いた」


「……ですよね」


「よろしく」


「よろしくお願いします」


 それだけ言うと、相馬さんは何事もなかったように本へ視線を戻した。


 黒野がどう反応すればいいのか分からず立っていると、先ほどの男が近づいてきて、遠慮なく肩を叩いてくる。


「気にすんな。凛は基本あんな感じだから」


「聞こえてる」


「ほら。ちゃんと聞いてる」


「聞こえてるなら、本人の前で言わない方がいいんじゃないですか」


「新人、お前結構言うな」


「そうですか?」


 男は一瞬きょとんとして、それから豪快に笑った。


「気に入った。佐伯恒一。よろしくな」


「よろしくお願いします」


「佐伯さんでも恒一さんでも、好きな方でいいぞ」


「新人に変なこと教えないで」


 相馬さんが本から目も上げずに言う。


「じゃあ佐伯さんで」


「お前もそっち側か」


「初対面なので」


「律よりは話が分かると思ったんだけどなあ」


「律?」


 聞き慣れない名前に黒野が首を傾げると、佐伯さんが部屋の反対側へ向かって声を飛ばした。


「おい、久遠!」


 一人の青年が顔を上げた。


 年齢は黒野とほとんど変わらないように見える。真面目そうな顔立ちで、椅子に座っているだけなのに妙に姿勢がいい。青年は少し面倒そうな顔をしながらも立ち上がり、黒野たちのところまで歩いてきた。


「久遠律。同じ新人だ」


「黒野透真」


「知ってる」


「……今日それ言われるの二回目なんだけど」


「採用訓練で目立ってただろ」


「俺が?」


「反応速度」


「ああ……」


 言われてみれば、測定の時に何度か教官が騒いでいた記憶はある。黒野本人にとっては、昔からそうだったというだけのことで、特別なものという実感は薄い。しかも反応速度以外の成績まで飛び抜けていたわけではなかった。


 久遠の視線が黒野の腰へ向く。


「《双影》?」


「さっき選んだ」


「双剣か」


「久遠は?」


「剣」


 腰に下げられているのは、ごく一般的な制式片手剣だった。


「シンプルだな」


「悪いか」


「いや。似合ってる」


「……そうか」


 久遠がほんの少しだけ視線を逸らす。


 愛想が良いとは言えない。


 けれど、嫌な感じもしなかった。


 黒野は何となく、この男とは普通に話せそうだと思った。


     ◇


 一通りの挨拶が落ち着いたところで、黒野は改めて隊室を見回した。全員を一度に覚えるのはどう考えても無理だ。そう思いながら視線を動かしていると、部屋の隅にあるソファで、一人だけ最初からほとんど動いていない男がいることに気づいた。


 年齢は周囲より明らかに上だ。四十代くらいだろうか。深くソファへ身体を預け、腕を組んだまま目を閉じている。


 黒野は隣にいた神代副隊長へ少しだけ身体を寄せた。


「あの人も第四ですか?」


「榊宗一郎」


「……寝てません?」


「寝てるわね」


「いいんですか?」


「起きてるぞ」


「うわっ」


 目を閉じたまま返事が返ってきた。


 黒野が驚いていると、男――榊宗一郎は片目だけを開ける。


「最近の新人は、年上が寝てるとすぐ副隊長に告げ口すんのか」


「告げ口したつもりはないです」


「そうか」


 榊さんは大きく欠伸をすると、ようやく身体を起こした。


「榊宗一郎。四十二」


「年齢まで言うんですね」


「お前、俺のこと四十代くらいって思っただろ」


「……」


「顔に出てるぞ」


「すみません」


「謝るところじゃねえよ」


 榊さんは小さく笑った。


 最年長と聞けばもっと近寄り難い人物を想像するところだが、実際には妙に力が抜けている。長くここにいるからこそ、必要以上に自分を大きく見せる必要がない。そんな雰囲気だった。


「新人」


「はい」


「一個だけ覚えとけ」


 それまで気の抜けていた榊さんの声から、僅かに笑いが消えた。


「死ぬな」


 黒野は瞬きをする。


「勝てなくてもいい。格好悪くてもいい。逃げてもいい。任務なんざ、生きてりゃ次がある」


 榊さんは真っ直ぐ黒野を見る。


「だから、生きて帰ってこい。話はそれからだ」


 ほんの数秒、黒野は何も答えなかった。


 やがて小さく頷く。


「……はい」


「よし」


 榊さんは満足したように頷くと、再びソファへ身体を預けた。


「じゃあ俺は寝る」


「榊さん」


 神代副隊長の声が飛ぶ。


「冗談だ」


「目を閉じない」


「厳しいなあ」


「隊長が甘いからです」


 少し離れた場所で御堂隊長が困ったように笑っていた。


     ◇


 その後、黒野と久遠は第四の基本的な運用について説明を受けた。現在の第四討魔隊は二十四名。普段は十二人前後ずつの二班を軸として活動するものの、完全な固定班ではなく、任務内容や必要な能力、その日の隊員の状態によって編成は柔軟に変更される。御堂隊長と神代副隊長がそれぞれ一方を率いることが多く、場合によっては榊さんや佐伯さんのような経験のある隊員が現場指揮を担当することもあるらしい。


「じゃあ俺はどっちなんですか?」


 黒野が尋ねると、神代副隊長は手元の端末から顔を上げた。


「まだ決めてない」


「決めてない?」


「あなたが何をできるのか、私たちは書類でしか知らないもの。久遠も同じ。しばらく訓練や任務を見てから判断する」


「分かりました」


 久遠が素直に答える。


 神代副隊長の視線が黒野へ向く。


「黒野も」


「分かってます」


「本当に?」


「なんで俺だけ確認されるんですか」


「なんとなく」


「副隊長がなんとなくで人を判断していいんですか?」


 少し離れたところで佐伯さんが吹き出した。


 神代副隊長の視線がそちらへ飛ぶ。


 佐伯さんは何もなかったように顔を逸らした。


 黒野は思う。


 やっぱりこの人、副隊長に弱い。


     ◇


 昼になると、黒野と久遠は半ば強制的に佐伯さんによって食堂へ連れ出された。


「新人が来たら飯を食わせる。これ第四の伝統な」


 食堂へ向かう廊下を歩きながら、佐伯さんが当然のように言う。


「そんな伝統あるんですか?」


「今作った」


「でしょうね」


「透真、お前ツッコミ上手いな」


 黒野の足が止まった。


「……今、名前で呼びました?」


「黒野って呼ぶより短いだろ」


「一文字も変わってないですけど」


「細けえこと気にすんな」


「恒一さん」


「お、いいねえ」


「呼ばないです」


「おい」


 隣を歩いていた久遠が小さく息を吐く。


「騒がしい人だな」


「律、お前はもうちょい先輩を敬え」


「敬われる行動をしてください」


「お前ら本当に新人か?」


 食堂へ着く頃には、黒野が隊室へ入った時に感じていた緊張はほとんど消えていた。


 三人で空いている席につき、食事を始めてしばらくすると、遅れて相馬さんがやって来て向かいへ座った。


「凛も来たのか」


「ここしか空いてなかったから」


「俺と飯食いたかったんじゃなくて?」


「違う」


「即答!?」


 黒野は黙って食事を口へ運びながら二人を見る。


 どうやら、このやり取りも普段から繰り返しているらしい。


「そういや透真」


「はい?」


「彼女いる?」


 黒野の箸が止まった。


「……なんで初日に聞くんですか」


「大事だろ」


「何が?」


「色々」


「いません」


「律は?」


「答える必要あります?」


「つまんねえ新人だな」


「佐伯さんがうるさいだけ」


 相馬さんが淡々と言う。


「凛、お前どっちの味方だよ」


「静かな方」


「俺に敵しかいねえ」


「自業自得では?」


 黒野が言うと、久遠が僅かに笑った。


「お前も結構容赦ないな」


「普通だろ」


 そんな話をしながら食事を続けていると、ふと相馬さんの視線が黒野の顔で止まった。


「黒野」


「はい?」


「朝、食べてないでしょ」


「え?」


「朝食」


「……食べてませんけど」


「やっぱり」


「なんで分かったんですか」


「顔」


「顔?」


 黒野は思わず自分の頬へ触れる。


「そんなの分かるんですか」


「分かる」


「凛はこういうの、気持ち悪いくらい当てるぞ」


「恒一」


「はい」


「午後の訓練で誤射するかも」


「怖っ!」


 黒野と久遠が同時に笑った。


 その瞬間、黒野は初めて久遠が普通に笑っているところを見た。


     ◇


 午後。


 黒野と久遠は総合訓練棟の一角で向かい合っていた。二人の間には数メートルの距離があり、黒野の手には訓練用に刃を潰した二振りの《双影》、久遠の手には同じく訓練仕様の片手剣が握られている。


 少し離れた場所には神代副隊長が立ち、その後ろには佐伯さんと相馬さん、なぜか榊さんまでいた。


「なんでこんなにいるんですか」


 黒野が尋ねる。


「新人が殴り合うって聞いたから」


 佐伯さんが答える。


「模擬戦です」


「似たようなもんだ」


「違います」


「恒一、黙って見てろ」


 榊さんに言われ、佐伯さんが肩を竦める。


 神代副隊長が二人の間へ視線を向けた。


「勝敗を見るためだけの訓練じゃないわ。二人が実戦で何をできて、何ができないのか。それを確認する。無理に勝とうとしなくていい」


「はい」


 久遠が剣を構える。


 その瞬間、空気が変わった。


 先ほどまで食堂で佐伯さんに呆れた顔をしていた同期とは思えない。剣を構えた途端に余計な力が抜け、視線も呼吸も変わる。


 黒野は《双影》を構えながら僅かに目を細めた。


「……久遠、結構強い?」


「今気づいたのか」


「まだ会って数時間だし」


「行くぞ」


「はいはい」


「返事が軽い」


 直後、久遠が踏み込んだ。


 速い。


 黒野は右手の《双影》で迫る剣を受け止める。甲高い音が響いた直後、既に二撃目が迫っていた。今度は左で受ける。そこから反撃へ転じようとするが、久遠の剣が双剣の間へ滑り込み、黒野が作ろうとした攻撃の流れそのものを崩してくる。


 黒野は一度距離を取った。


「うまいな」


「褒めてる場合か」


「いや、本当に」


「だったらちゃんと構えろ」


「構えてるって」


 再び久遠が踏み込む。


 黒野も今度は迎え撃った。


 右で受け、左で返す。久遠が避ける。黒野が追う。だが、追えば追うほど差が見えてきた。


 黒野は武器を扱える。


 《双影》も使える。


 けれど、それはあくまで「扱える」というだけだった。


 対する久遠は、剣を使っている。


 踏み込み、重心、間合い、刃の角度。どれを取っても黒野より一段上で、無駄が少ない。黒野が反応速度によって間に合わせている場面を、久遠は技術によって先回りしてくる。


 そして数度目の攻防。


 久遠の剣が右へ動いた。


 黒野も反応する。


 ――違う。


 フェイント。


 本命は左。


 気づいた時には遅かった。


 完全に引っ掛かった。


 刃を潰しているとはいえ、まともに入ればかなり痛い。そう理解した時には、久遠の剣が既に黒野の首元へ迫っていた。


 避けられない。


 黒野自身も、そう思った。


 ――そのはずだった。


「……っ!?」


 久遠の目が見開かれる。


 剣が空を切った。


 黒野自身も驚いていた。


 気がついた時には身体が深く沈み込み、久遠の剣の軌道から外れている。見てから考えたわけではない。どちらへ避けるか判断した記憶すらない。


 身体だけが、先に動いた。


「……危な」


 黒野が呟く。


「お前……」


 久遠が動きを止める。


 黒野も自分が何をしたのか分からず首を傾げた。


「続けて」


 神代副隊長の声が飛ぶ。


 それだけで二人は再び構えた。


 模擬戦は、その後もしばらく続いた。


 そして結果は――久遠の勝利だった。


「参った」


 訓練場の床へ座り込んだ黒野が両手を上げる。


「普通に強いじゃん」


「お前が剣を知らなさすぎる」


「訓練では使ったんだけどな」


「振れるのと使えるのは違う」


「厳しいな」


 久遠は少し呆れた顔をした後、黒野へ手を差し出した。


「でも」


「ん?」


「さっきのは何だ」


「さっき?」


「俺の剣を避けた時」


「ああ」


 黒野は差し出された手を掴んで立ち上がる。


「分からん」


「分からんって……」


「気づいたら避けてた」


「……そうか」


 久遠は納得していない顔をしている。


 けれど、それは黒野も同じだった。


 昔からこういうことはある。何かが飛んでくれば考えるより先に避け、転びそうになれば身体が勝手に姿勢を直す。自分にとっては当たり前だったため、深く考えたこともない。


 少し離れた場所では、神代副隊長と榊さんがその様子を見ていた。


「記録通りですね」


「ああ」


 榊さんが腕を組む。


「考えて避けてねえな」


「反応が先に出ている」


「便利じゃねえか」


「それだけなら、ね」


 神代副隊長はそれ以上何も言わなかった。


     ◇


 初日の日程がすべて終わった頃には、窓の外はすっかり夕方になっていた。黒野は荷物をまとめ、今日受け取ったばかりの《双影》が所定の位置に収まっていることを確認してから、第四の隊室を出ようとする。


「黒野!」


 後ろから佐伯さんの声が飛んできた。


「はい?」


「明日遅れんなよ!」


「分かってます」


「あと朝飯食ってこい」


「なんで佐伯さんまで知ってるんですか」


「相馬から聞いた」


「人の朝食事情を共有しないでください」


「大事な情報だろ」


「どこがですか」


「任務中に腹鳴ったら格好悪いだろ」


「そこ?」


 周囲から笑い声が上がり、黒野も呆れながら小さく笑った。


 まだここへ来て一日も経っていない。それなのに朝、講堂の椅子に座っていた頃と比べれば、随分と肩の力が抜けている気がする。


 黒野は軽く手を上げて挨拶をすると、隊室の扉へ向かった。けれど扉へ手を掛けたところで何となく足が止まり、ほんの少しだけ振り返る。


 まだ名前すら知らない隊員が大勢いる。今日まともに話した相手だって、御堂隊長と神代副隊長、それから佐伯さん、相馬さん、榊さん、そして同期の久遠くらいだ。それ以外の隊員とは挨拶を交わした程度で、どんな人間なのかも分からない。それでも、朝にはただ「配属先」としか思っていなかった第四討魔隊という場所が、今はほんの少しだけ違って見えていた。


 佐伯さんが何人かの隊員を相手に、まだ何か騒いでいる。その少し離れた場所では相馬さんが本を読みながら、時折うるさそうに視線だけを向けている。久遠は自分の席で、今日の模擬戦で使った片手剣を真剣な表情で手入れしていた。榊さんはソファへ深く身体を預けて目を閉じているが、本当に寝ているのかどうかは、もう黒野には分からない。


 そして部屋の奥では、神代副隊長が何枚もの書類を御堂隊長の机へ置いていた。


「隊長。今日の分です」


「……多くない?」


「昨日の分も入っています」


「昨日?」


「昨日、隊長が残した分です」


「ああ……」


「今日中にお願いします」


「伊織、少しくらい――」


「副隊長です」


「……神代副隊長。少しくらい減らしたりは」


「しません」


「だよね」


 御堂隊長が諦めたように書類へ手を伸ばすと、それを見ていた何人かが笑う。その笑い声に御堂隊長まで苦笑し、神代副隊長も呆れたように小さく息を吐いた。


 それは特別な光景ではなかった。


 英雄がいるわけでもなければ、今まさに世界の命運を懸けた作戦について話しているわけでもない。ただ仕事を終えた人間たちが騒ぎ、笑い、明日の準備をしている。どこにでもありそうな一日の終わりだった。


 けれど黒野は、不思議とその光景からすぐには目を離せなかった。


 これまで自分がここにいなかったことなど誰も気にしていないように、第四の日常はずっと続いてきたのだろう。そして今日から、その中に自分の席が一つ増えた。


 それが少しだけ、不思議だった。


「黒野?」


 名前を呼ばれて顔を上げると、御堂隊長が書類を手にしたままこちらを見ていた。


「帰らないの?」


「あ、帰ります」


「明日もあるからね」


「分かってます」


「遅刻するなよ!」


 すぐに佐伯さんの声が飛んでくる。


「しませんって!」


 黒野が返すと、また笑い声が起こった。


 そのまま扉を開き、廊下へ出る。背後で扉が閉じる直前まで、中から誰かの話し声が聞こえていた。


 静かになった廊下を一人で歩きながら、黒野は腰に下げたばかりの《双影》へ軽く触れる。今日だけで覚えなければならないことは山ほど増えた。施設の場所も半分くらいしか覚えていないし、二十一ある討魔隊の役割だって怪しい。第四の隊員に至っては、顔と名前が一致する人間の方が圧倒的に少ない。


 それでも――。


「……まあ、悪くないか」


 自然と、そんな言葉が口から零れた。


 別に大した意味はなかった。


 今日一日を過ごしてみて、思っていたより居心地が悪くなかった。ただ、それだけの感想だった。


 明日になれば、またここへ来る。


 同じ扉を開ければ、きっと佐伯さんが騒いでいて、相馬さんがそれを冷たくあしらい、榊さんはどこかで寝ていて、久遠は真面目に剣を振っている。御堂隊長は相変わらず笑っていて、神代副隊長はそんな隊長に仕事をさせているのだろう。


 明後日も、その次の日も。


 きっと同じように。


 そんな日々が、これからずっと続いていくのだと――

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