2. 箱の底
翌日、グレゴワール様が領内側から戻り、書き直した申告を書記へ出す。産地の欄は王都。通常の倍を納める音を、検め台で聞く。
硬貨が受け皿へ落ちる音は、思っていたより短い。響きが消えても、グレゴワール様はこちらを見ない。抱え直す絹の場所だけを空けている。
書記の受領を確かめて返却を告げると、老兵が絹を渡し、通行帳を開く。グレゴワール様は絹を抱えたまま台の脇へ退く。台に寄せられた明日の事前申告には毛織物とあり、その売り込みを辺境伯様へ直に持ちかけるつもりらしい。老兵が通行帳の開いた頁を示す。
「訂正、納税、返却済みだよ。これで昨日の絹は済んだ。空いた所は次の荷に使えるね」
わたくしの脇で老兵が頁を閉じる。辺境伯様は通行の間に立ち、門番は門の傍ら。予告の花嫁道具を運んできた令嬢が、箱を台に置く。
置く音が重い。持ち上げた腕の震え方と、箱の底が台へ着く音が、どうしても釣り合わない。令嬢は箱を置いても、まだ重さを支える格好のままでいる。
蜂蜜色の髪を編んだ少女が、老兵に留められ、台の脇で爪先を揃えている。老兵が靴の先で示した敷石の継ぎ目が、そこから先へ入らないための線だ。荷は持っていない。台の端には、わたくしが来る前に運び込まれ、老兵が検めを終えた菓子の包みが、昨日から引き取りを待って残っている。少女の視線は、その包みと箱の間を行き来する。
令嬢が、箱に添えた紙をわたくしへ向ける。
「グレゴワール様の保証も付いた花嫁道具です。館へ持って上がる品ですから、ここで傷を付けられては困ります。丁重に扱ってください」
絹を抱えたグレゴワール様が背を伸ばす。たった今しぼんだ襟元が、元の高さへ戻る。
「お任せください。保証があれば、お話も早くまとまります。館へお納めになるには十分な品です。ここでお待たせする理由はございません」
「保証があっても、拝見するのは中の品です。持ち主の前で確かめますので、こちらへ箱を向けて、蓋を開けていただけますか?」
令嬢が留め具を外し、唇を結ぶ。外れた留め具を見下ろしたまま、令嬢は蓋を開けずに言う。
「申告までお出ししたのに、まだ疑われるのですか? 花嫁道具をここで広げるなんて……。確かめるのでしたら、せめて早く済ませてくださいますか?」
言い終えてから、令嬢は蓋へ手を掛ける。指がしばらく縁の上で止まり、それから、息をひとつ吐いて蓋を起こす。
運び込む時の重さに比べ、見える金の輝きは浅い。台の秤へ目をやり、開いた箱の底へ視線を戻す。金の下に、角張った灰色が並ぶ。箱の縁に近い所だけが明るく、その奥では、石と石の隙間に暗がりが詰まっている。
「二荷目。花嫁道具一式、宛先は辺境伯様。持参金は金貨三百、ただし箱の底は石ですわね」
声を令嬢へ絞る。通行側へ箱を回さずにいると、令嬢が蓋の端を握る。
「閉めてください! 石まで、そんなふうに……。ここで足りない所を見られて、どんな顔であの方に会えばいいの?」
その握り方を、知っている。数えられて減っていくものを、押さえておこうとする形だ。蓋の端へ視線が吸い寄せられて、令嬢の顔を見られない。
老兵の差し出す布を受け取り、箱へ掛ける。布の端が台に落ち、金も石も、通行人からは見えなくなる。見えなくなってから、ようやく言葉が出る。
「持参金の足りない所を、あなたまで埋める必要はありません」
布の端を握っていた令嬢が顔を上げる。
「でも、この箱がなければ、ここへ来た意味までなくなるでしょう? 花嫁道具を置いて、自分だけ通るなんて。何を持って会えばいいのですか?」
「箱をお預かりすることと、あなたをお帰しすることは別です。お話しになるのは、箱ではありません。お会いになって伝える言葉まで、ここへ置いていく必要はありません」
箱の上の布が、少し緩む。そこに残った皺を見つめてから、令嬢が台から身を離す。
「……荷を置いても、会いに行ってよいのですね? 足りないから帰れと、そう言われるのではないのですね?」
「はい。お伝えになることは、ご自身でお選びください。ただ、道具を預けている間は、縁談には進みません。どんなお返事になるかまでは、お約束できません」
布の下で石は動かない。わたくしは奥の荷置き場を示す。
「箱はこちらでお預かりします。中身に合わせて申告を直し、通常の倍をお納めになればお返しします」
令嬢が申告を引き寄せる。箱の上の保証書を見下ろし、令嬢はそれを布から抜き取る。
「申告は直します。箱も預けます。……グレゴワール様、この保証はお返しします。十分な品とおっしゃったのは、あなたです。もう買いません」
差し出された紙は、グレゴワール様へ直接戻る。絹を抱える格好を崩して紙を受け取り、また絹を抱え直す。今度は保証の言葉が出てこない。
「花嫁道具はお預かりいたします。お客様として、お通りください」
門番が道を開ける。箱を置いた令嬢の歩幅が、門へ向かって広がる。今は、箱へ振り返らない。老兵が台の脇の少女をこちらへ引き合わせる。
「お待たせしたね。辺境伯様の妹君、ミュゼット様だよ。こちらは検め役のロズモンド」
「兄様の花嫁は私が決める」
ミュゼット様と目を合わせる。辺境伯様の眉が動くが、こちらへ口は挟まない。止める言葉もないので、わたくしが引き受ける。
「では、その方のお話も最後までお聞きください。宛名と噂だけでは決められませんよ。途中で決めてしまったら、肝心なお話を聞き損ねます」
「聞くわよ! ここならお菓子も旅のお話も来るもの。まだ帰らないわ!」
ミュゼット様は辺境伯様を見てから、こちらへ身を乗り出す。爪先は同じ線に置いたまま、編んだ髪だけが揺れる。
「甘い匂い! あそこの包み、お菓子よ。でも、開けていいと言われるまで待つわ」
「それでは、お待ちくださいね。荷を広げる所へは、まだお入りにならないでください」
「分かってる。線から出ないもの」
令嬢の背が街道へ消えると、ミュゼット様が待っていた線を見下ろす。揃えた爪先は、その線から動いていない。
「ずっと待てたのよ。ロズモンド、褒めてくれてもいいでしょう! ちゃんと見ていたの?」
「はい。お礼に同じ菓子をと思ったのですが、あれはお値が張りますね……。あれほどお待ちくださったのに、安いものでは失礼でしょうし」
「買ってなんて言ってないわ。ロズモンドの言葉がいいの! 褒めてって言ったら、どうしてお買い物が始まるの?」
包みから顔を戻す。ミュゼット様はまだ同じ所に立ち、こちらを見上げている。菓子へ戻りかけた視線を、その顔に留める。返事が遅れても、爪先は線を越えない。
「お待ちくださって、助かります。おかげで、あの方のお話を最後まで伺えました。……ありがとうございます、ミュゼット様」
「それ! そう言ってくれたら、また待てるわ。次のお話もここで聞いていいのね?」
頷くと、揃っていた爪先がこちらへ向く。向きが変わったぶんだけ、台の脇が近い。編んだ髪の先が弾み、線を越えていないミュゼット様の笑顔が、すぐそばにある。
辺境伯様が館の買入れ用の書付を出す。グレゴワール様の名と、毛織物の売値がある。老兵は朝に寄せた事前申告を、その書付の隣へ並べ直す。
「この荷が次に来る。値を見てくれ」
「同じ荷の勘定か、本人の帳簿で確かめます。今はまだ、どちらの値についても申し上げられません。こちらの書付も、預けていただけますか?」
辺境伯様が頷く。グレゴワール様は絹を運び出しかけて、台へ顔を戻す。
「館にも得のある売値なんだ。明日は俺が毛織物を持ってくる。帳簿も見せるから、売値だけで決めつけるなよ!」
絹が門の向こうへ消える。ミュゼット様が側から紙を覗き、辺境伯様はわたくしが重ね終えるのを待つ。急いで角を合わせようとすると、かえって紙がずれる。
「急がなくていい」
ずれた紙を直す動きまで止まる。
「……お待たせした分は、明日の働きでお返しいたします」
「待つだけだ」
返事の代わりに、重ねた紙を持ち直す。辺境伯様はまだそこにいる。
縁を揃えても、売値の書付の角だけが、通行の間の灯りへはみ出している。




