1. 絹の産地
「持参金のない娘は要らない。商いは損得だ」
商家の跡取りだった婚約者は、うちが没落した翌週にそう言った。
帳簿を閉じるときと同じ手つき。惜しむ響きも、責める響きもない。合わない勘定を、静かに伏せるだけ。持参金を失ったのは家なのに、要らなくなったのは、わたくしだ。
あの声を振り払い、今は関所の検め台へ向き直る。
峠から下りてくる風が、街道の埃を運んでくる。麻と獣脂と、遠い雨の匂い。王都の客間にはなかった匂いが、検め台にも、ここに立つわたくしにも染み込んでくる。
損得。結構ですわ。では、得のある所へ参ります。
壁の募集の書付を、改めて見上げる。
辺境伯領の関所が、検め役を探していた。荷を検め、税を取り、通す。給金は月に金貨二枚。
ほかに応募者はいない。台の向こうには背の高い男と、通行帳を抱えた白髪の老人。奥の席と門の前にも男が控え、街道では荷を運ぶ人影が動いている。
初日から働ければありがたい。父の借財は、領を失っても残っている。給金の行から、なかなか目が離れない。
「検め役に応募いたします。目利きと勘定なら、ここでお役に立てると思います」
老兵は壁の書付を示す。通行帳を抱えた腕は、そのままだ。
「募集を出したのはわしだよ。近ごろ荷に目が追いつかんでね。若い目に任せたい。面接は、こちらのユスタス辺境伯様がなさる。奥が受領の書記、門の前が門番だよ」
名を告げる。ロズモンド、二十二。没落した伯爵家の長女である。婚約を破棄されてから、グレゴワール様の商いには携わっていない。そこで覚えた目利きは、ここへ持ってきた。
辺境伯様が、台の向こうから灰色の目を向ける。返事を急かす声はない。こちらが顔を上げるまで、待っている。
「何を見られる?」
「布の織りと、その品に付ける値です。荷と帳簿が違っていれば、違うと申し上げられます。持ち主が変わっても、申し上げることは同じです」
「値まで見えるのか?」
「売る側の隣におりましたので。品と値が合っていなければ、客にも勧められません。帳簿にある値で受け取れる品か、荷を開けて見立てます」
老兵が通行帳を開き、使い込んだ頁をこちらへ向ける。革の匂いと、乾いた墨の匂いが立つ。
「身分は問わん。税と通すかどうかを決めるのは検め役だよ。今は見立てだけ聞かせておくれ」
頁の角を押さえ直し、老兵は荷置き場を示す。
「申告が違えば税は倍。直して納めるまで荷を預かる。持ち主は通せるが、そこはよいかね?」
「検めるのは荷であって、人ではありません。嘘を見つけても人を辱めず、私情で税を増やしません。借金は自分で返します」
言い終えてから、借金のことまでは聞かれていなかったと気づく。下げかけた顔を戻し、検め台の向こうを見る。
台に荷が載る。黒髪を撫で付けた持ち主が、わたくしを見て足を止める。グレゴワール様。開きかけた口が閉じ、絹の包みだけが、間に残る。
「……なぜ、この台に立っている?」
「検め役の募集に応じて参りました。今は、見立てを聞いていただいております」
老兵が台の荷を示す。
「では、この荷を見てもらおうかね? 開けるのは持ち主に頼むよ」
グレゴワール様が包みを解く。老兵が並べた荷札と申告には、産地として隣国の名がある。破棄の後に書かれた紙で、わたくしが見るのは今が初めてだ。
「見れば上等と分かるだろう。隣国の絹だ、よく売れる。辺境の客も待っているんだ。早く済ませてくれれば、こちらも助かる」
老兵が莚の上へ絹を広げる。光へ傾けると、懐かしい織り目が浮かぶ。婚礼の支度に、と客へ勧めた光沢だ。布は今も美しく、これを広げていた自分の声まで近くなる。
「上等な絹です。けれど、産地が違います。この織りは、申告にある隣国のものではありません。糸の撚りが、あちらのものより浅うございます」
「浅いだと? 見ただけでは分からんだろう! その絹でいくらになるか、分かって言っているのか?」
「上等だというお話は、否定しておりません。光の返り方が違います。どうぞ、端を裏からご覧になってください」
老兵の目が、光沢のある面から端へ動く。白い眉が上がり、通行帳を抱えていた腕が緩む。
「あちゃー……やられた。嬢ちゃん、三十年見てきた目が、今日は負けたよ」
辺境伯様が、開いた絹へ目を落とす。
「君を雇う。今日から頼む」
返事をしようとして、声が出遅れる。壁の給金の行へ目が戻り、ようやく、深く頭を下げる。
老兵が台の内側へ椅子を向け、通行帳を渡す。わたくしは座らずに、その前へ立つ。申告を引き寄せると、隣国と書かれた欄が正面に来る。
「一荷目。絹十反、産地は隣国とのことですが、この織りは王都ですわね。関税は倍」
「ロズモンド! 俺の荷を止めるな!」
「関所は荷を検める所ですもの。元婚約者様の荷も、王家の荷も」
絹が向こうへ引かれる。布を追わず、申告を持ち主へ向け直す。光沢が細くよじれ、台の上で止まる。
「税を増やしたら儲けが消えるだろう! 運んできた費用も払えなくなるぞ! この額で売ると、もう客には話してあるんだ!」
「儲けが消えても、産地は変わりません。申告と荷が違うまま、通すことはできません! こちらの欄をご覧ください」
グレゴワール様が辺境伯様を見る。灰色の目は、こちらを向いたままだ。助ける言葉も、代わりに決める声もない。
「これまで俺の商いを支えてきたくせに! 売れるようにしていたのはお前だろう! 今になって、よその商いみたいな顔をするな!」
狭い台の向こうで、グレゴワール様が待っている。客へ勧めていた自分の声を探しかけ、申告へ目を戻す。
「……売れるようにと、確かめておりました。だから、今も違うものを同じとは言えません。申告は持ち主がお直しください」
「今は通せ! 得意先を待たせて、この荷まで預けろというのか?」
「お急ぎなのは分かります。それでも、この申告では通せません。書き直していただけますか?」
「直せば通るのか?」
「はい。産地を書き直し、それに従って税をお納めください。金額は、書記に確かめていただきます」
グレゴワール様が申告を見下ろしたまま動かない。わたくしは台の内側から出て、奥の荷置き場を示す。老兵が絹を包み直すと、明るい光沢が通行人から隠れる。
「絹は奥の荷置き場でお預かりします。申告を直して税をお納めになれば、お返しします。グレゴワール様は、お先に通っていただけます」
書記が計算と、納める欄を示す。
「こちらが通常の倍の額です。産地を書き直した申告と合わせて、お納めください」
「待て、高すぎる! ……分かった。申告を書き直してくる。今は荷を置いていくぞ。絹が傷まないようにしておけよ!」
「お預かりする品ですから。きちんとお返しできるようにいたします」
グレゴワール様が計算を見比べているあいだに、辺境伯様がわたくしの椅子を示す。
「少し休め」
「次の荷を待ちます。あの、休む間は無給になりますか?」
「給金は変わらない。座って待て」
「ですが、まだ働けます。椅子よりは、きっとお役に立ちます」
「椅子と張り合うな」
腰を下ろしかけて、止まる。椅子の縁をなぞるように眺めてから、壁へ目を逃がす。金貨二枚の書付が揺れている。
「……ありがとうございます。では、座らせていただきます。荷が来ましたら、すぐに立ちますので」
ようやく座り、通行帳を膝へ寄せる。木の座面は、思っていたよりも温かい。台を見上げると、辺境伯様と目が合う。礼の続きを探す間も、そこにいる。
「次も君が検めろ」
老兵が届いた荷の知らせを開く。
「明日は花嫁道具が来るそうだよ。宛先は辺境伯様。荷置き場を空けておこう」
宛先から辺境伯様へ目を移す。花嫁道具。通行帳を開いたまま、続きを待つ。辺境伯様は黙って書付を畳む。絹の紐を離したグレゴワール様が、門へ向き直る。
「俺は領内の得意先を回る。明日、直した申告を持って納めに戻るから、絹を渡せよ!」
絹は荷置き場に収まり、門へ向く背に荷はない。わたくしは椅子から立ち、道を空ける。門番がこちらの言葉を待つ。
「お通りください。荷は、こちらでお預かりしますわ」




