3. 帳簿は一冊
三日目。台に広げた昨日の書付へ、グレゴワール様の毛織物が載る。紙の端が荷の下へ隠れ、帳簿もその隣に置かれる。辺境伯様は買入れの値を確かめに、書記は受領の席に、門番は門の傍らにいる。
朝の峠には霧が残る。荷を包む莚まで湿って色が濃くなり、ほどけかけた端から、羊毛の脂の匂いがこもった埃とともに漂う。
補助に立つ老兵が、抱えた通行帳の表紙を撫でる。
「名乗るのが遅れたね。わしはロンサールだよ。嬢ちゃん、あんたの記入も見せておくれ」
「よろしくお願いします、ロンサール。読みにくい所は、遠慮なくお教えください。こちらの書き方に合わせます」
通行帳へ伸ばしかけた手を止める。ロンサールはまだ表紙を撫でている。握られて白くなった革の角。そのすぐ先の頁に自分の字を書くと思うと、筆の持ち方まで気になってくる。
いったん筆を台へ置き、毛織物へ向き直る。
「こちらが、館へお出しになった書付の毛織物ですね? お品を確かめますので、結びを解いていただけますか?」
「そうだ。ここで揃えれば館での話が早い。運んでくるにも費用がかかっているんだ。よく見ろよ、値の張るだけの品だぞ」
グレゴワール様が麻縄を解く。莚の内側から現れた毛織物は、端まで柔らかい。台に広がるにつれ、昨日の絹とは違う、ふっくらした陰ができる。
「こちらの毛織物は、どちらから仕入れた品でしょうか? 書付と照らしますので、産地を伺えますか?」
「産地は……書いてあるとおりだ。疑う所なんてない! 館で使うには、いい品だろう。値の話なら聞くぞ!」
言葉が途切れた所で、毛織物の端も止まる。続く声は、荷を包んでいた莚まで震わせそうに大きい。けれど、織りと記載は合っている。持ち上がった端を静かに台へ戻す。
「品と産地に相違はありません。書付のとおりのお品です。では、この毛織物の値を記した頁を拝見します」
グレゴワール様が辺境伯様へ帳簿を向ける。その陰から、書記へも帳簿が出る。書付を添えると、同じ荷の名の下に違う値が並ぶ。広がった毛織物の端は、どちらの帳簿にも届いている。
「帳簿が二冊では、荷の値も二つですわね。一冊に揃えていただけますか?」
「客への値まで見せろとは聞いていないぞ! そっちは館へ売るための帳簿だ。お前が確かめるのは、こっちだ!」
税用の帳簿がこちらへ押し出される。わたくしは、無関係な品が並ぶ頁を閉じる。開いたまま残すのは、いま台にある毛織物だけ。
「納める時だけ別の値にはできません! ほかのお品の頁は閉じました。今、確かめているのは、この毛織物の記載です」
「売るにも費用がかかるんだ。仕入れた値で売っていたら続かないだろう! お前は俺の儲けまで消すつもりか?」
「商いが続かなくなっては困ります。こちらも、関税を頂けなくなりますので」
「俺の心配をしながら税を取るな!」
グレゴワール様が客向けの頁を引こうとする。帳簿の角が毛織物に引っかかり、柔らかな端がくしゃりと寄る。わたくしは帳簿を押さえず、その布を示す。
「費用のお話は伺います。けれど、いま確かめたいのはこちらのお品です。どちらを、この荷の値になさいますか?」
「安く通せれば、客にも安く出せるんだぞ。そのくらい分かるだろう! 辺境伯様にとっても悪い話ではないはずだ!」
辺境伯様の視線が帳簿から上がる。グレゴワール様は客向けの頁をその方へ寄せ、税用の頁を袖の傍へ引く。帳簿の間で、毛織物だけが置き去りになる。
「そのお値を館へお出しになるのでしたら、税を納める時も、そのお値でお願いいたします。こちらだけ別にはできません」
「……分かった。揃える。だから、その頁を寄こせ! 俺が書くから、そこで待っていろ!」
帳簿を本人へ返す。筆先が値の欄へ降りる。線を引く音のあいだ、わたくしは布の寄った所を伸ばし、黙って待つ。客用と税用の違いが消え、税用の帳簿は閉じられる。台に残るのは、値を揃えた一冊だ。
「こちらの帳簿の値でお納めいただきます。書記の計算も、持ち主としてお確かめください。書き直した欄はこちらです」
グレゴワール様が計算を覗く。その前で、通行帳がわたくしの側へ滑ってくる。ロンサールが撫でていた革の角が、書き入れやすい向きで止まる。
「ここへ、見た品を書いておくれ。わしの字の続きでいい。あんたの検めた荷だからね」
「……はい。毛織物、申告の値を訂正。お納めいただいたことまで確かめて、続けます。記入した所は、ご覧ください」
通行帳の紙は、見た目より柔らかい。わたくしは空いている所へ筆を運ぶ。余白は十分にあるのに、ロンサールの字から離れすぎていないか、そればかり気になる。
書記がグレゴワール様から受け取り、計算の欄を示す。
「訂正後の申告に従い、通常の倍をお納めいただきました。こちらの値で受領しています」
「お納めに相違はありません。毛織物をお通しください。広げた端は、包みの内側へどうぞ。柔らかい所が、道に触れませんように」
門番が道を開ける。グレゴワール様は毛織物の端を収めながら、こちらを振り向く。畳みかけた莚が、途中で浮いたままになる。
「次の布には王家御用と記されている。今度こそ急いでもらうぞ。俺の品を運ばせるからな! 待たせるなよ!」
辺境伯様は頷かない。結び直す縄はまだ台の上にあり、荷の先には開いた道が見える。莚が毛織物を覆うと、羊毛の匂いも薄くなる。
◇
同じ台の傍らで、ロンサールがわたくしの記入へ目を落とす。辺境伯様も、荷を結ぶグレゴワール様も、声の届く所にいる。
「本日の分は一荷、預かり零件。……あんたの字は読みやすいね」
「……ありがとうございます。次の荷も、記載と中身を確かめてから、ここへ続けてまいります。お読みになる時に、迷われませんように」
筆を持ち直すと、ロンサールはもう記入した所を離れ、古い頁を繰っている。書き足すことのない筆先を浮かせたまま、わたくしも目で追う。着任より前の日付に、花嫁道具という文字が残る。
「ここにも候補の方の荷がある。道具の申告が合わず、預けて客として通るか、引き返すかだったよ」
「どなたも、同じ所で止まっておいでですね。花嫁道具の、その記載で」
「そうだね。箱の中身より、書いた紙のほうが先に走るのさ」
空いた台を撫で、次の布を広げる場所を作る。紙の端を荷の下に巻き込まぬよう、書付を寄せる。王家御用と記されていても、開ける所は同じだ。
三荷目、四荷目。荷を開けるたびに、誰かの嘘が一つ減る。
辺境伯様の目が、花嫁道具を預かる場所へ向く。
「あの箱は、まだここか?」
「はい。ご本人はお客様として館へ進まれました。道具はこちらでお預かりしています。まだ、お通ししてはおりません」
布を掛けた箱は、荷置き場に収まっている。掛け布の裾から、箱の角がのぞく。ご本人は館へ進めても、道具を家に受け取り、縁談として卓に載せる所までは進んでいない。通行帳から顔を上げる。
そして辺境伯様が、関所の窓口の前に立って仰った。
「関所を通れた花嫁候補は、まだ一人もいない」
「検めが厳しくて、申し訳ありません」
灰色の目が、箱からわたくしへ戻る。謝ったあとの言葉を待つ。
「いや。検める側に、一人いる」
開いた頁を押さえる。花嫁道具の文字から、自分の書いた毛織物の文字へ目を戻す。まだ乾いていない。何をお返しすればよいのか分からず、台の縁に筆を揃える。もう揃っているのに、先の向きを直す。
グレゴワール様の縄を結ぶ音も止んでいる。
「……そのご評価に甘えず、これからもお役に立ちます」
ようやく顔を上げる。辺境伯様は、まだわたくしを見ていらっしゃる。




