第2章:残された時間
■止まった時間
ナムが息を引き取った翌日。 火葬を終え、自宅である工場の二階へと続く階段を上がる。いつもなら上りきったところで「ナーー」と出迎えてくれたナムの姿は、もうどこにもない。静まり返った部屋に戻ってくると、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように重く沈み込んでいった。
小さな骨壺となったナムを机の上に置き、タクはその前から動こうとしなかった。二十年間、どんなに辛い日も自分の足元に寄り添ってくれていた温もりが消え去り、胸の真ん中に大きな風穴が開いたような感覚だった。食事が喉を通るはずもなく、ただぼんやりと空虚な視線を骨壺に向けていた。
「タク、大丈夫……?」
聞きなれた声とともに、部屋の中へ駆け込んできたのがマイだった。
静まり返った部屋の中に座り込むタクの姿を見た瞬間、マイの胸は締め付けられるように痛んだ。5歳の雨の日、共に仔猫を助けてから二十年。タクがどれほどの想いでナムと向き合い、どれほど深く愛していたかを、誰よりも近くで見守ってきたのはマイだったからだ。
「タク、少し外に出て風に当たろう? ……ね?」
マイは優しく、けれど拒絶させない力強さでタクの背中に手を添えた。
弱り切っていたタクは、マイに促されるまま力なく立ち上がり、ゆっくりと外の光の中へ足を踏み出した。
■告白
二人はあてもなく歩き、幼い頃によく遊んでいた公園のベンチに腰掛けた。 風が吹き抜ける静かな午後の木漏れ日の中で、マイはあえてナムの死には直接触れず、他愛もない昔話を語り始めた。
5歳の雨の日に二人でびしょ濡れになって親に叱られたこと。 ナムが初めて「ナムナム」と鳴いたとき、二人で顔を見合わせて笑い合ったこと。 タクが夜遅くまで工場で試作品を作っていたとき、二人でカップラーメンを食べたこと。
「あの回路の決め手は、私のアイディアがあったからだよね? もっと感謝してよね!」
試作機の名前の後ろにマイの「M」をブーブー言いながらマジックで書き足すマイの姿を思い出し、タクは思わず笑みをこぼした。
マイの飾らない言葉を聞いているうちに、頑なに固まっていたタクの心が少しずつ解きほぐされていった。この二十年は決して悲しみだけで満たされていたわけではない。温かい思い出がそこにあったのだと、タクは思い出していた。
「……ありがとう、マイ。少し、楽になったよ」
タクがいつもの穏やかな表情をかすかに取り戻したのを見て、マイは小さく息を呑んだ。仕事に追われ、自分の気持ちを後回しにし続けてきたけれど、今言わなければ後悔する気がした。
「タク……。私ね、ずっとタクのことが好きだったんだ」
突然の言葉に、タクは息を飲んでマイを見つめ返した。
幼い頃からずっと好きだった。けれど、タクの両親の死、工場の経営難、大学の中退、そして何よりナムとの時間を必死に生きるタクの姿を見てきたからこそ、マイは自分の気持ちを押し付けることができず、今日まで打ち明けられずにいたのだ。
「ずっと、一番近くでタクを見てきたから。だから……言いたかったの」
タクの胸に、マイの真っ直ぐな言葉が染み渡っていく。ナムを失った深い悲しみの中に差し込んだ、あたたかな光のようだった。マイが自分にとってどれほど大切な存在であったかを、タクもまた強く実感していた。
「あ、返事は落ち着いてからでいいからね! 今すぐじゃなくていいから! タクがちゃんと前を向けるようになってから、聞かせて」
「……分かった。ありがとう」
タクは静かに頷いた。心の整理がついた時に、きちんとマイに向き合って答えを伝えよう。そう心に誓った。
その時、ぽつりと冷たいものがタクの頬を打った。 空を見上げると、いつの間にか暗雲が立ち込め、ポツポツと雨が降り始めていた。
「あ、降ってきたね。急いで帰ろうか」
「そうだね。風邪ひいちゃうし」
雨足は瞬く間に強まり、視界を白く遮るほどの土砂降りとなった。濡れた路上に反射する街灯の光が乱反射し、激しい雨音が周りの音をすべてかき消していく。二人は濡れるのを避けるため、自然と足を早めて帰り道を急いだ。
■断ち切られた日常
雨で煙る交差点に差し掛かった時のことだ。
激しい雨音を切り裂くように、短い警告音が響いた。 視界を奪う猛烈な雨の中、ヘッドライトの光が白く爆発するように迫ってくる。激しい雨と滑りやすい路面のせいで、車が雨でスリップした。
「――マイッ!」
瞬時に異常を察知したタクは、自分をかばう間もなく、隣にいたマイの体を力任せに押し飛ばした。
「ドラマでよくある身を挺して恋人を守る…いや、まだ恋人じゃないけど…やってみたかったんだよな…そして、『これまでの思い出が走馬灯のように浮かぶ』って本当だったんだ!」
タクは空を舞いながらも冷静に考えていた。不思議と痛みも怖さも感じなかった。
「タク――!?」
しかし、タクの思いはドラマのようには天には届かず、マイもまた車体を避けることはできなかった。
衝撃と強烈な眩しさの中で、世界が急激に薄れていく。 何が起きたのかを理解する間もなく、マイの意識は深い闇へと落ちていった。
五歳のあの日、二人でナムを拾った時と同じ降り続く雨の中、二人の意識は静かに薄れていった。




